勝龍寺城は、京都府長岡京市勝竜寺、東神足2丁目にあった城で、現在は勝竜寺城公園となっている。
勝龍寺城は、京都盆地の南西部に位置し、京都から西宮を経て中国、九州へと続く「西国街道」と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地する。
応仁、文明の乱の際にも、西軍畠山義就が陣を置くなど、寺院としての「勝龍寺」が、臨時の砦として利用されるなど、次第に恒常的な城郭として整備された。
元亀2年(1571)には、織田信長の命をうけ、細川藤孝が大改修した。
土を切り盛りして造った、それまでの中世城館とは一線を画し、「瓦葺」「石垣」「天主」といったその後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられている。織田信長の安土城築城より5年早く、近世城郭の先駆けとして注目されている。
天正2年(1574)細川藤孝は、三条西実澄(のちの実枝)から古今伝授の切紙を受けるなど文化的な交流の場ともなっている。
天正10年(1582)、本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉が戦った天下分け目の山崎の合戦では、一帯が戦場となり、敗れた光秀は勝龍寺城に逃げ、最後の夜を過ごしている。
園内には、細川忠興・玉(ガラシャ)像が建てられており、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」との石碑もある。→ 細川ガラシャゆかりの地
天正6年(1578)に、藤孝の子息忠興と明智光秀の娘 玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われた場所とされ、毎年11月第2日曜日には、玉(ガラシャ)が細川忠興のもとに輿入れした状況を再現する「長岡京ガラシャ祭」が開催されている。
この婚礼地の伝承は、熊本藩の歴史書「綿考輯録」に収められた書状を根拠としているが、馬部隆弘氏の研究では、書状は書式や内容から見て偽文書で、明智家との関係を示して家格を高めようとした人物が偽造したのではないかとしている。
JR京都線長岡京駅下車徒歩10分。来訪者用の駐車場がある。→ 高桐院
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