史跡 新田義貞公墓所

史跡 新田義貞公墓所は、福井県坂井市称念寺にある。
新田義貞(1301-1338)は、鎌倉末、南北朝時代の南朝方の武将である。
元弘3年(正慶2年)(1333)鎌倉幕府を滅ぼし、建武政権から重用されたが、のち足利尊氏と対立した。
兵庫で楠木正成とともに九州から東上する足利尊氏と戦ったが敗れて、恒良、尊良両親王を奉じて越前金ヶ崎城で再起を図ったが敗れて、嫡男義顕(よしあき)が自刃した。
延元3年(1338)越前 燈明寺畷(とうみょうじなわて)(福井市)で守護 斯波高経(しばたかつね)、平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇して戦死した。
その遺骸は、斯波高経のはからいで、時宗の僧8人に担がれて往生院(称念寺)に運ばれて埋葬された。
天保8年(1837)の五百回忌にあたり、福井藩8代藩主 松平宗矩(むねのり)は、義貞の旧墓石を埋めて、その上に高さ2.6mの大きな五輪石塔の墓を建てた。
新田義貞公墓所として、福井県史跡に指定されている。

太平記巻第二十「足羽合戦義貞自害の事」では、次のように記されている。(出典「日本古典文学全集」)
「さては相違なし。義貞の頸(くび)なりけり。哀れなるかな。
敵ながらも氏族として、武勇の誉誰かはと思ひしに、今かくなりぬる事よ。
弓矢取る物は、人の上と思ふべきにあらず」とて、高経不覚の泪をぞ流されける。
尸骸(しがい)をば輿(こし)に乗せて、時衆を添へて、葬礼追善のために往生院へ送られ、(後略)



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)