明智光秀一族の墓は、滋賀県大津市の西教寺境内にある。
山門前には、「明智光秀公の一族の菩提寺」の石碑があり、
境内墓の案内板には、「坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓」と記されている。
元亀2年(1571)9月、織田信長の比叡山焼討ちにより、西教寺も全山類焼となった。
その後、再興に尽力したのは、信長の家臣 明智光秀で、坂本城主として一帯の復興に当たり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築した。
西教寺には、明智光秀の刻銘入りの棟木が残されている。
天正2年(1574)仮本堂を完成し、現在の本尊(阿弥陀如来)を迎えている。
明智光秀は、天正10年(1582)の本能寺の変のあと、山崎の合戦で敗死し、一族とともに西教寺に葬られたといわれる。
西教寺塔頭實成坊の過去帳には、下記のとおり記されている。
天正十年六月十四日 秀岳宗光大禅定門(明智十兵衛尉殿日向守光秀)
供養塔には、次のとおり刻されている。
秀岳宗光大禅定門
南無阿弥陀佛
天正十壬午年六月十三日
供養塔前には、元禄六年(1693)に記された「明智軍記」をもとにした、明智光秀公辞世句の石碑が建立されている。
西教寺では、毎年6月14日に光秀忌を営んでいる。
一族の墓の西側には、二十五菩薩の像が建てられ、さらにその西には、明智光秀の妻 凞子(ひろこ)の墓がある。