丹波亀山城跡は、京都府亀岡市荒塚町にある。
丹波亀山城は、天正5年(1577)から天正7年にかけて、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻略の拠点として築城した。
大堰川右岸の河岸段丘上の小丘(亀山)を利用した平城で、亀宝(きほう)城とも呼ばれた。
「丹陽軍記」によると、明智光秀は、近藤秀政の居館を拡張した普請を溝尾庄兵衛らに命じ、近在の神社仏閣の格子、敷石などを借用し築城したという。
天正10年(1582)の本能寺の変で、光秀は亀山から出陣し織田信長を討ったが、羽柴秀吉との山崎合戦で敗れ、丹波亀山は秀吉の支配下に置かれた。
そして、堀尾吉春、羽柴秀勝(信長四男 於次(おつぎ)丸)、豊臣秀勝(関白秀次の弟)、豊臣秀俊(後の小早川秀秋)、前田玄以などが城主や代官となった。
江戸時代に入り、慶長14年(1609)岡部長盛が藩主となると、天下普請として西国大名を動員しての整備が行われ、藤堂高虎が伊予今治から5層の層塔型天守を移築した。
明治11年(1878)には、廃城令を受けて亀山城も解体され、荒廃した。
大正8年(1919)亀岡出身の宗教法人「大本」教祖、出口王仁三郎(わにさぶろう)が、本丸、二ノ丸址13,500坪を入手して石垣等を整備したが、昭和10年(1935)の政府弾圧で施設が破却された。
戦後、大本の信者によって再整備され、「亀岡天恩郷」となっている。
大本神苑の一部であるため、見学の際には、みろく会館1階総合受付で申し込みが必要である。
石垣上には、高さ20メートルの大イチョウがある。明智光秀の手植えと伝えられ、江戸時代中期に台風で倒れ、若木を植え替えたもので、「亀岡音頭」にも歌われている。
城跡北側の南郷公園には、明智光秀公像がある。
JR山陰本線亀岡駅下車徒歩10分。来訪者用の駐車場がある。
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