明智藪は、京都市伏見区小栗栖小阪町にある。
明智光秀(1528?-1582)は、天正10年(1582)6月2日に織田信長を襲撃して自刃させた。(本能寺の変)
その後、光秀は6月13日の山崎の合戦で羽柴秀吉軍に敗れ、勝龍寺城から坂本城に逃げる途中、小栗栖の藪で、落ち武者狩りをしていたと思われる土地の者に竹やりで突かれて深手を負い、最期を遂げたといわれる。
以降、明智光秀が討たれた場所は「明智藪」と呼ばれるようになり、昭和50年(1975)には石碑が建てられた。
現在は、西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
当地から約1.6㎞北側には、明智光秀の胴塚がある。
江戸時代に書かれた「都名所図会」には、次のように記されている。
「小栗栖の里は石田の西にあり。このところより木幡山(こはたやま)を越えて伏見城山に出づる道あり。これを明智越といふ。
天正十一年、明智光秀山崎の合戦に敗し、江州坂本の城におもむくときにこの道を逃ぐる。小栗栖の土民出でて竹の槍をもつて害す。このゆゑに名とせり。」
「光秀が竹槍にて亡ぼされし藪は、南小栗栖法華檀林の側らにあり。この薮を伝領しける土民、災ひありとていまはこの寺へ寄附しけるとなん。」
京都市営地下鉄石田駅下車、徒歩15分。→ 明智光秀の塚(明智光秀首塚) → 明智光秀ゆかりの地
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