明智光秀の塚

明智光秀の塚(明智光秀首塚)は、京都市東山区梅宮町にある。
天正10年(1582)6月2日、明智光秀本能寺に宿泊していた織田信長を急襲し自害させた。(本能寺の変)
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきたきた豊臣秀吉と山崎で合戦し敗れた後、勝龍寺城からわずかな家臣とともに近江の坂本城をめざした。
そして、その途中、小栗栖(おぐるす)(京都市伏見区小栗栖小阪町)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたと言われている。

光秀の首は、家臣によって隠されたともいわれるが、吉田兼見(よしだかねみ)という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は6月15日までに発見された。
6月18日からは、粟田口(左京区)で重臣斎藤利三(としみつ)の首とともに数日間晒され、6月22日、23日には近くに埋め、塚を築いたことが記されている。
「都名所図会」など、江戸時代の京都について記した地誌類には、塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されている。
多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえる。
その後、江戸時代中期の安永年間から天明初年頃(1770-1780頃)に、蹴上の塚にあった石塔婆が当地に移された。
天明7年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」には、明智光秀塚が明田(あけた)氏という人物によって白川橋三条の南に移されたとの記載がある。

小栗栖の明智藪胴塚西教寺谷性寺とともに、明智光秀を弔う場所となっている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩3分。



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