国指定史跡 加納城跡は、岐阜市加納丸ノ内にある。
当城は文安2年(1445)斎藤利永が築いた上加納城の跡を利用、拡張して築城されたといわれる。
上加納城は土岐氏の居城 革手(かわて)城の備えとして、上加納のうり沓井(くつい)郡に築かれたが、天文年間1532-55)に廃城になったという。
関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)に大坂城の豊臣氏に対する備えのため、徳川家康が廃城跡に近世加納城の築城を命じた。
初代の城主は、家康の娘 亀姫の婿である奥平信昌で10万石を与えられた。
江戸時代を通して、奥平氏3代、大久保氏1代、戸田氏3代、安藤氏3代、永井氏6代の譜代大名が城主を勤めた。
明治4年(1871)の廃藩に伴い、翌5年から建物が売り払われて解体され、堀も埋められた。
加納城は、東と南は荒田川、北に清水川、西に長刀(なぎなた)堀に囲まれた平城である。
大手門は城の北側を通る中山道に面し、三の丸、厩曲輪(うまやくるわ)、二の丸を経由して本丸に至る。
本丸南側には大藪曲輪がある。城下町は中山道沿い(加納宿)と長刀堀の西側に広がっていた。
総図によると、本丸、二の丸、三の丸、厩曲輪に櫓が建てられていた。
二の丸北東角(現岐阜地方気象台)には、享保13年(1728)に焼失するまで、岐阜城の天守を移築したとされる三階の隅櫓(すみやぐら)があった。
昭和58年(1983)に国史跡に指定されており、城跡は加納公園となっている。
初代城主奥平信昌と正室亀姫の墓が、城跡西方約500mの盛徳寺(臨済宗)にある。
JR及び名鉄岐阜駅からバスで加納附属小学校前下車、徒歩5分。本丸跡南側に来訪者用駐車場がある。
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