顯徳院爪塚

顯徳院爪塚は、和歌山県高野山奥の院32町石北西にある。
松平(結城)秀康同母霊屋の西側に位置する。

高さ44cm、幅30cmの砂岩製墓石で、各面には次のように刻されている。
(木下浩良氏高野山学講座資料 参照)
(上面)
顕徳院爪塚
(左横面)
上野国館林城主従五位下
肥前守源朝臣武雅氏
之遺爪也明和六己丑三月
蔵焉
(右横面)
上野国館林城主従四位下行侍従
為右近衛将監源朝臣武元松平氏

松平武雅(1703-1728)(まつだいらたけまさ)は、江戸時代中期の大名である。
元禄16年に美濃(岐阜県)高須藩主松平義行(よしゆき)の次男として生まれた。
越智松平家の松平清武(きよたけ)の養子となり、享保9年(1724)家督を相続し上野(こうずけ)館林藩主(5万4千石)となった。
享保13年7月28日死去。(26歳)法名は顕徳院。

松平武元(たけちか)(1717-1779)は、江戸時代大名で老中。
享保元年に常陸(茨城県)府中藩主 松平頼明(よりあきら)の次男として生まれた。
上野館林藩主 松平武雅の養子となり、享保13年養父の家督を継ぐと同時に陸奥棚倉に移封となった。
奏者番、寺社奉行を経て、延享3年西の丸老中となり、館林にもどった。
延享4年老中、明和元年から15年間老中首座を務め、明和6年(1769)6万1千石に加増された。
徳川吉宗、家重、家治の三代の将軍に仕え、田沼意次と協力関係にあった。
安永8年7月20日64歳で死去。法名は大超院勇山。



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