音羽山清水寺は、京都市東山区にある北法相宗の大本山である。
奈良時代末期の宝亀9年(778年)、奈良の小島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、音羽山腹の滝のほとりで、永年練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)から霊木を授けられ、千手観音像を彫作してまつったのが寺のおこりである。
宝亀11年(780年)に、妻の安産のために鹿を求めてきた坂上田村麻呂が、延鎮上人に生類殺生の非を諭され、妻とともに帰依して仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。
寺号は、北観音寺とされたが、音羽の滝に因んで「清水寺」と呼ばれるようになった。
本堂(国宝)は、寛永10年(1633年)に寄棟造り檜皮葺で再建された。有名な「清水の舞台」は本堂の付属建築物で、崖縁に18本の太柱を建て、縦横139本のけやきを組んで床を支える構造になっている。
本堂内々陣に安置されている本尊の十一面千手観世音菩薩は、33年に1度開帳される秘仏で、平成12年3月から12月まで開帳された。
西国三十三所観音霊場第16番札所で、1994年に「古都京都の文化財」を構成する資産の一つとして、世界遺産に登録されている。
本堂の下に清水寺信仰の源となった音羽の滝が流れ落ちており、参拝者が列を作り、三筋の流れを学業上達、縁結び、健康長寿の願いを込めて柄杓で汲む姿が見られる。
寺域は、約13万㎡と広大で、京洛の街を遠望できる舞台からの眺めは京都随一といわれ、春は桜、秋は紅葉の景観を求めて参拝者が絶えることがない。
京都市内主要ターミナルから京都市バスで五条坂、清水道下車徒歩10分。
18世紀後半から19世紀にかけての清水寺の景観を描いた「洛東清水寺惣絵図」が、江戸幕府の大工頭を務めた中井家に残されている。
この絵図には、仁王門前に「泰産寺子安共」と貼紙された三重塔(子安塔)が描かれている。
応其上人の事績を記した「諸寺諸社造営目録」には「清水シカマノ社頭」と記されており、「高野山通年集」には応其が造営した寺社の一つとして、「清水寺の子易塔」が記されている。
鐘楼横には、坂上田村麻呂が狩猟で仕留めた鹿を手厚く埋葬した「鹿間塚(シカマヅカ)」がある。
鹿間塚近くにあった子安塔は寛永6年(1629)の火災で焼失し、その後再建され、明治44年(1911)に現在地(本堂の南谷を隔てた丘上)に移築された。