高野山女人堂への里程石(高野街道 里石)


高野山へ向かう街道で最も古く、多くの人々に利用されたのが東高野街道である。
この街道は、京都から八幡、枚方を経て、生駒山西麓を南下し、河内長野から紀見峠を越え、町石道から高野山に至るもので、平安時代後期に開かれたといわれている。
その後、堺からの西高野街道、平野からの中高野街道がひらかれ、河内長野で合流して高野山に登ることができるようになった。
なかでも、西高野街道は近世に大いに栄えて、現在でも堺の大小路(おおしょうじ)橋を起点に高野山女人堂まで、一里毎に道標石が残されている。
これらはいずれも幕末の安政4年(1857)茱萸木村(大阪狭山市)の小左ヱ門と五兵衛の発願によって13基建立され、すべてが現存している。

高野街道 13里石

高野街道 13里石は、大阪府堺市堺区榎元町にある。

竹内街道との三叉路分岐点にある標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(正面) 是より高野山女人堂 江 十三里
(右面) 安政四丁巳年三月 
       発起人 茱萸木村 小左衛門
                    五兵衛
(左面) 南無大師遍照金剛 
       施主 加賀田村   伊左ヱ門
                    久左ヱ門
                    源兵ヱ
                    □□□
(裏面)



高野街道 12里石

高野街道 12里石は、大阪府堺市東区関茶屋にある。

道標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 安政四丁巳年三月 
       発起人 茱萸木村 小左衛門
                    五兵衛
(正面) 是より右 高野山女人堂 江 十二里

(左面) 南無大師遍照金剛 
       施主 関茶屋新田 □□□
       世話人 喜兵衛
            平兵衛
(裏面)





高野街道 11里石

高野街道 11里石は、大阪狭山市岩室2丁目にある。

三叉路にある道標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 安政四丁巳年二月 
       発起人 茱萸木村 小左衛門
                    五兵衛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 十一里

(左面) 南無大師遍照金剛 
       施主 岩室村 中村喜兵衛
(裏面)


高野街道 10里石

高野街道 10里石は、大阪府大阪狭山市にある。

道標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 安政四年丁巳三月 
       発起人  小左衛門
              五兵衛
(正面) 是より 高野山女人堂 江 十里

(左面) 南無大師遍照金剛 
       施主 茱萸木村中
(裏面)




高野街道 9里石

高野街道 9里石は、大阪府河内長野市古野町にある。


行者堂前の道標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 安政四丁巳年三月 
       発(起人) 茱萸木村 (小左衛門)
                     五兵衛
(正面) 是より 高野山女人堂 九里

(左面) 南無(大師遍照金剛) 
          (         )
(裏面)






高野街道 8里石

高野街道 8里石は、大阪府河内長野市三日市町にある。

石見川にかかる新高野橋東北詰めにある道標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 南 南無大師遍照金剛 従是北
         施主 三日市宿
         施主 堺和泉屋長兵衛
(正面) 西 是ヨリ 高野山女人堂 江 八里
(左面) 北 安政四丁巳年二月
                従是 三日市宿
(裏面) 発起人 茱萸木村 小左衛門
                    五兵衛
      




高野山女人堂へ七里の里程石

高野山女人堂へ七里の里程石は、大阪府河内長野市天見にある。

標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(正面) 高野山女人堂 江 七里
(右面) 安政四丁巳年二月 発願主 茱萸木村 小左衛門
                               五兵ヱ
(左面) 南無大師遍照金剛 施主 □野村   向井庄三郎
                      惣□□  向井源助

当地から約500m北には、河内長野市の設置した案内板がある。




紀見峠 高野街道 6里石

高野街道 6里石は、和歌山県橋本市柱本の紀見峠にある。紀見峠は、和歌山県と大阪府の境にある標高400mの峠である。
紀伊国と河内国の境で、高野街道の宿駅として栄えたところで、峠の旧街道脇に「高野山六里道標石」が建てられている。
道標石には、各面に次の文字が刻まれている。

(右面) 安政四丁巳年二月 
       発願主  茱萸木村 小左衛門
                    五兵衛
(正面) 高野山女人堂 江 六里

(左面) 南無大師遍照金剛 
       施主 河州野村
             大喜多重□衛門
(裏面)




旧高野街道 高野山五里道標石

旧高野街道 高野山五里道標石は、和歌山県橋本市橋谷にある。
この道標石は、元は約300m南に建てられていたが、国道の建設により現在地に移された。
標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 五里
(左面) 安政四丁巳九月立之
        施主 堺 和泉屋 伊右衛門
                同  吉右ヱ門
(裏面)  発起人 茱萸木村 小左衛門
                   五兵ヱ
昭和56年8月28日に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線御幸辻駅下車、徒歩15分。 






高野街道 4里石

高野街道 4里石は、和歌山県橋本市東家にある。

東家渡場大常夜燈籠の西側にある道標石には次のように記されている。
(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 四リ
(左面) 安政四丁年九月 
      河洲伏山前田村 辻本幸左エ門 
                 一統(縁)中
(裏面) 発起人 茱萸木村 小左エ門 
                  五兵エ




旧高野街道 高野山三里道標石

旧高野街道 高野山三里道標石は、和歌山県橋本市学文路にある。

この三里道標石は、元は学文路小学校の北の土井川の橋の袂にあったが、移設された。
標石には、各面に次の文字が刻まれている。
(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 三り
(左面) 安政四丁巳九月
       河州錦部郡 
        下岩瀬村 中村甚右ヱ門
        下天見村 大谷十兵ヱ
        下天見村 川見惣兵ヱ
        上岩瀬村 田中藤〔兵ヱ〕
(裏面)  孫海 
        河州 小左ヱ門
              五兵ヱ
昭和56年(1981)に橋本市の文化財に指定されている。
南海高野線学文路駅下車、徒歩10分。 




旧高野京街道里石(二里道標石)

旧高野京街道里石(二里道標石)は、和歌山県九度山町の河根千石橋北詰にある。

当地の案内板には、次のように記されている。
   九度山町文化財
     旧高野京街道里石(二里道標石)
 京都と高野山を結ぶ参詣道路を東高野街道(当地方では京街道)と呼び、
平安時代末か鎌倉時代初期に開かれ高野聖の納骨や庶民の参詣道として栄えた。
また、堺から河内長野を経て高野山を結ぶ参詣道路を西高野街道と呼び、江戸時代になって堺の全盛期を迎えて盛んになった。
 この街道が、郷土の歴史を知るうえで、長く有形民俗文化財として保存する必要あるので指定した。
    平成元年二月十六日
      九度山町教育委員会

道標石には、次のように記されている。

(右面) 南無大師遍照金剛
(正面) 是ヨリ 高野山女人堂 江 二里
(左面) 安政四丁巳年九月 
        河州錦部郡 川添村 大師講中
(裏面) 発起人 河州 茱萸木村 小左衛門
                      五兵衛




高野街道 京大坂道 一里道標石

高野街道 京大坂道 一里道標石は、和歌山県高野町細川(神谷)にある。

一里道標石には次のように刻されている。
(右面)南無大師遍照金剛
(正面)是ヨリ 高野山女人堂 江 一里
(左面)安政四丁巳年九月
       河州丹南郡 半田氏
(裏面)発起人 河州 茱萸木村 小左エ門
                     五兵衛

横の道標石には次のように刻されている。
右 京大坂道
施主 京三條大橋 いセや半兵衛

向かって左端の道標石には、次のように刻されている。
(正面)   じそん院弘法大師御母公御廟所
     左 槇尾山・粉河寺・しん四國道
       紀北加田こえ金毘羅えちか道
(右面) 右 京・大坂道
(左面) 是ヨリ二里麓九度山村真田安房守・同幸村古跡寺有
      安政五年 子霜月建之
(裏面)   施主 慈尊院村
             牧野助三郎
           九度山村
             中村新兵衛






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