高野街道六地蔵第一(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市清水にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、当地から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
「地蔵堂(清水村にあり。この堂より山上まで、六地蔵とて六体あり。その一なり。)」
第一は清水、第二が橋本市南馬場、第三が九度山町繁野、第四が同町河根(かね)峠、第五が高野町西郷の作水(さみず)、第六は同町桜茶屋にそれぞれ祀られている。
当時どのような規模で祀られていたか、明らかでないが、信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産である。
当地に西行庵がある。
「紀伊続風土記」の清水村の項には、
「地蔵堂 村の東端にあり 高野街道六地藏第一といふ堂内に西行の像あり
長七寸許坐像にて包を背に背負へり」
と書かれている。
平安時代末期の歌人西行が、一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地として
「正覚山永楽寺西行庵」と呼ばれている。→ 西行法師ゆかりの地
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
西行上人像 堂内に安ず。坐像。背に包みを負へり。長七寸許。西行此地にすみしといふ。
西行松 堂の側にあり。
西行の 草履もかゝれ 松の露 芭蕉
衣掛櫻 堂の前にあり。光厳院法皇の御衣をかけたまへる。櫻の古木の枯れたるあとなりとて。
今さくらの小樹を植ゑたり。
とりかけし御衣の雫かしこみて 今も涙のちる櫻かな 橘 可折
また、太平記巻39には、光厳法皇が紀の川を渡る時に、橋から落ちて辻堂で衣を変えたことが次のように記されている。
紀伊川を渡らせ玉へば、--- 法皇は橋の上より推し落とされ玉ひて、水に沈ませ玉ひけり。
--- 御衣は水に漬りて --- 辻堂へ入れ進らせて、御衣を解ぎ替へさせ ---
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。