上野沼田藩 土岐家供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石北西にある。
稲葉正成供養塔の東隣に位置している。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には中型五輪塔4基、小型五輪塔1基、方柱墓標3基ほかがあり、倒壊しているものが多い。
主な墓石は次のとおりである。
写真番号 | 墓石銘文 | 没年 | 被供養者名 | 備考 |
① | 明和元年八月十日 韜光院殿實相 紹山大居士 上州沼田城主 土岐美濃守源定経公霊 |
明和元年 (1674) |
不詳 | |
② | 源頼稔公追福 乾光院殿 □□道如 九月十二日 |
延享元年 (1744) |
上野国沼田藩 初代藩主 土岐 頼稔(よりとし) |
寛政重修諸家譜の法名 「乾光院殿真岩道如大居士」 |
③ | 土岐山城守頼行公 爲御慈母 土岐丹後守源頼稔公 再加御修補 |
出羽上山藩初代藩主 土岐頼行の母 諏訪頼水の娘 (土岐定義正室) |
||
④ | 元和五年 前山州刺史 雪山正白 大禅定門 正月八日 |
元和5年 (1619) |
摂津国高槻藩主 土岐 定義(さだよし) |
中型五輪塔 |
⑤ | 正保二天 久林院殿 善生早英 大姉 十二月五日 |
正保2年 (1645) |
不詳 |
土岐市の祖は清和源氏頼光流で、頼光の五代後裔光信が美濃国土岐郡(現・岐阜県瑞浪市・土岐市)に居住して、土岐氏を称したのに始まるという。
土岐定政は、徳川家康に仕えて諸侯に列し、定政(守谷藩)、定義(高槻藩)、頼行(上山藩)、頼殷(田中藩)、頼稔(沼田藩)と各代が続いた。
土岐定義(1580-1619)は、土岐定政の次男として生まれ、慶長2年家督を継ぎ、徳川秀忠に仕えた。
元和3年摂津高槻藩主(2万石)となり、元和5年1月8日に40歳で死去した。
土岐頼稔(1695-1744)は、土岐頼殷(よりたか)の子で、正徳3年駿河田中藩主となり、奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を経て、寛保2年老中となった。
延享元年9月12日に50歳で死去した。
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