京都所司代上屋敷跡

京都所司代上屋敷跡は、京都市上京区藁谷町の旧待賢小学校敷地にある。
所司代屋敷は、二条城北一帯の広大な敷地に、上屋敷、下屋敷、堀川屋敷の3つがあり、当地は上(かみ)屋敷にあたる。
下(しも)屋敷は当地から約500m西の中務町付近に、堀川屋敷は約100m東の下堀川町付近にあった。
所司代の名称・役職は、室町幕府の侍所にはじまり、織田信長や豊臣秀吉の時代を経て、徳川幕府に受け継がれた。徳川時代の所司代は関が原合戦の直後に設けられ、慶長5年(1600)の奥平信昌が初代である。
徳川将軍直属の役職で、京都の朝廷の監視や交渉、畿内8カ国の天領の訴訟業務、西国大名の取り締まりなどを行う、老中に次ぐ重要役職であった。
慶長6年(1601)には板倉氏にかわり、板倉勝重、勝宗父子2代が約50年にわたって務め、京都の町の整備と民政に尽力して、特に重宗は名所司代の誉が高かった。
以降幕末まで58人が任じられている。
寛文8年(1668)には、京都支配など民政上の権限が京都町奉行に移された。
その後老中への出世コース的な役職となり、地位は高いが幕政上の政治力は低下したため、幕末に京都守護職がその上位機関として設置され、慶応3年(1867)12月王政復古とともに所司代は廃止された。
跡地には、明治3年(1870)、わが国最初の中学校、京都府立京都第一中学校が建てられた。
京都市バス二条城前下車、徒歩5分。



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