松平大隅守供養塔

松平大隅守供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石北東にある。
らしく詩碑の横に、大型五輪塔4基が並んでおり、史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、松平(能見)家女性3代の供養塔と松平大隅守重則供養塔がある。
東端の大型五輪塔(左から4基目)は、松平大隅守重則供養塔で、地輪には次のように刻されている。
武州江戸御旗本松平大隅守
重則爲菩提也施主
     松巖院殿□隅□
(梵字)
     憲誉珠□□□
太郎八重正建之
寛永十八天十二月廿七日

松平重則(1580-1642)は、江戸時代前期の大名で、松平重勝の三男として生まれた。
徳川秀忠につかえ、関ヶ原の戦い、大坂の陣に参陣した。
寛永3年5月に本多忠刻が所領で亡くなった時には、重則が命を受けて姫路に出向き、忠刻妻の千姫(天樹院)を迎えて江戸の秀忠のもとに帰っている。
寛永10年上総百首(ひゃくしゅ)に1万500石を領して大名となった。
その後所領の変遷があったが、寛永17年下野(栃木)皆川藩主松平(能見)家初代となった。
寛永18年12月27日に62歳で亡くなり、憲譽珠寶松巖院と号した。
供養塔建立者の松平重正(1623-1662)は、松平重則の長男として生まれ、幼名は太郎八と呼ばれた。
寛永19年に父の跡を継ぎ、下野皆川藩2代藩主となった。
当地には、重正母の称光院、重正正室の勢光院の供養塔が並んで建立されている。



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