尾張清洲藩主 松平忠吉供養塔

尾張清洲藩主 松平忠吉供養塔は、和歌山県高野山奥の院33町石北西にある。
摂津尼崎 青山家供養塔に対して、参道を挟んだ西方山側上の段に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓所には、中型五輪塔1基、小型一石五輪塔1基、板碑などがある。
中型五輪塔の地輪が分離して、約5m離れた場所にある。
地輪には次の文字が確認できる。
尾張國清(洲)
松平薩摩
(梵字)性高院
慶長十二年
施主

松平忠吉(ただよし)(1580-1607)は、徳川家康の四男で、東条松平家第3代当主 松平家忠の病死により、その家督を継ぎ、東条松平家第4代当主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに参戦し、論功行賞として尾張国、美濃国に52万石を与えられ、清州城に入った。
慶長11年(1606)には、下野守から薩摩守となっている。
慶長10年から病となり、慶長12年28歳で死去した。法名は性高院殿憲*(螢の下が玉)玄伯大居士。
忠吉には嗣子がなかったため、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直)が継ぎ、松平東条家は廃絶した。



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