南方熊楠生誕地は、和歌山市橋丁31番地にある。
南方熊楠(みなかたくまぐす)(1867-1941)は、国際的に知られた博物学者で、幕末に和歌山城下の橋町(はしちょう)(現在の橋丁)で金物商 南方弥兵衛の次男として生まれた。
雄小学(おのしょうがく)(現在の雄湊小学校)、和歌山中学校(現在の桐蔭高等学校)を経て大学予備門(現在の東京大学)に進み、中退してアメリカに渡った。
シカゴで地衣類(ちいるい)学者カルキンスに師事し、その後 英国に渡って、大英博物館で考古学、人類学、宗教学を独学で研究し、雑誌ネイチャーやノーツ&クイアリーズに多くの論文を寄稿した。
明治33年(1900)に帰国後は、和歌山、那智勝浦に住み、明治37年から田辺町(現在の田辺市)に定住して結婚し、粘菌類などの採集に没頭した。
明治39年に出された神社合祀令に対しては、鎮守の森の伐採により生態系が崩れることから神社合祀反対運動を行い、生態学的な考え方から環境の保護を訴えた。
昭和4年(1929)、昭和天皇の和歌山行幸の際には、田辺湾内の神島(かしま)で粘菌類のご進講や標本の進献を行った。
南方は、粘菌や植物学だけでなく、歴史、民俗、文学など多岐の分野で論文を発表し、民俗学の草創期に柳田国男とも交流して、影響を与えた。
海外では、大英博物館東洋調査部員などの職に就いたが、帰国後は職に就くことなく、南方酒造を経営する弟 常楠(つねぐす)の援助と父の遺産で研究生活を送った。
当地には、平成6年に和歌山市が胸像を建立し、胸像下に碑文も刻まれている。
和歌山県白浜町には南方熊楠記念館がある。
南海本線和歌山市駅下車、徒歩5分。
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