小田原北条家墓所は、和歌山県高野山奥の院にある。
墓所横の「小田原北條氏の興亡(一四九五-一五九〇)」の石碑には次のように記されている。
小田原北條氏は、伊豆韮山城主伊勢新九郎早雲が、明應四年(一四九五)箱根山を東に越え、小田原城に大森氏を逐って西相模に進出し、その子氏綱が小田原を根城にしたのが興りである。
氏綱は姓を北條と改め、関東に割拠する豪族名流と結び、或は攻略し秀れた経綸をもって武蔵國迄版図を拡げた。
三代氏康は、父祖の建業の精神、仁慈を旨とした王道を推進し、富國強兵の実を挙げ、四代氏政の間に略々関東一円を治める大々名となった。
然るに、五代氏直の天正十八年(一五九〇)に至り、天下統一の征戦を進める豊臣秀吉の軍門に降り、茲に小田原北條氏は五代九十五年に及ぶ治世の幕を閉じた。
氏直は、秀吉に高野山高室院に蟄居を命ぜられ、翌年伯耆一國で大名に復歸を約束されたが、実現寸前の天正十九年(一五九一)十一月四日高野山麓の天野の地で病没した。
秀吉は替って氏政の弟北條氏規を河内狭山に封じ、併せて宗家の継承を命じた。狭山北條家は明治に至って華族に列せられている。
早雲氏綱父子の行実
始祖早雲(一四三二~一五一九)は備中(岡山県井原市)高越城に生る。父伊勢備中守盛貞、母同苗伊勢守貞國女、四男一女の二男である。
若年上京して禅門に参入、諸学を修め、長じて将軍足利氏の側近に仕えた。
のち甥の守護大名今川氏親補佐の爲駿河に下り、時運に乗じて小田原城を収め、関東進出の拠点を築いた。
早雲は清廉潔白にして慈悲心に富み領民愛護に徹し、求道的な生涯を貫いた。
早雲寺殿廿一箇条の家訓には早雲の豊かな人間性が余すなく伝えられている。
二代氏綱(一四八七~一五四一)は母小笠原氏。
永正十五年家督を継承北條を名乗り小田原に居城、弟長綱(幻庵)に内政を委ね、旧体制下に呻吟する関東の民衆解放への戦さを進めた。
氏綱は沈着果敢、義を専らにして信仰心厚く、生涯に再興、創建した社寺は、箱根権現、鶴岡八幡を始め十指に余る。
夫人は養珠院、後室は関白近衛尚通の娘である。(中略)遺訓五箇条があり、幻庵には廿四条の庭訓があって世に名高い。
戦國大名北條氏の他に比類なき家風の生まれた所以が茲に偲ばれる。
北條氏綱公生誕五百年を記念し之を建つ。
昭和六十二年(一九八七)五月吉祥日
小田原北條氏顕彰会
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩20分。