大畑才蔵勝善の墓

大畑才蔵勝善(おおはたさいぞうかつよし)(1642年-1720年)の墓は、和歌山県橋本市学文路にある史跡である。
利水の先覚者大畑才蔵勝善は、寛永19年(1642年)学文路で生まれた。
18歳で杖突(つえつき 庄屋の補佐役)、28歳で高野内聞役(こうやないぶんやく 高野山の情報を藩に伝える役)と、若年で要職に就き、各層から厚い信望を集めた。
元禄9年(1696年)55歳の時「和歌山会所詰御用」を命じられて藩に出仕し、以降大畑才蔵の優れた才能は紀州藩の事業を通して大きく開花した。
大畑才蔵が手がけた大水利事業は、元禄11年(1698年)からの伊勢一志郡の新井(しんゆ)施工完成、紀州では元禄13年藤崎井(ふじさきい)、宝永7年(1710年)小田井竣工の二大灌漑事業がある。
特に小田井は根来(岩出市)に至る大規模なもので、県下随一を誇る農業用水であった。その長さは9里8町(約36㎞)に及び、およそ1000町(約9.9㎢)の田に水を導いた。
これらの水路には、サイフォン方式や「かけひ」方式など天才的な設計技法が随所に用いられている。
その後、才蔵のたずさわった仕事は、名高浜(なだかはま)の塩田、亀池(海南市)、引の池、河瀬(こうぜ)新地(橋本市)など多数に及ぶ。
享保5年(1720年)9月24日に79歳で没し、戒名は「浄岸慈入居士」とつけられた。墓石は、紀ノ川側から3列目の左から4つ目である。
「才蔵日記」等の記録類も残されており、墓地とともに和歌山県指定文化財となっている。
墓地からは、紀ノ川を望むことが出来る。
南海高野線学文路駅下車、徒歩18分。かむろ大師の参拝者駐車場がある。



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