大中臣弘泰歌碑(日本最古の歌碑)は、和歌山県高野山奥の院にある。
「正和元年板碑」とも呼ばれ、奥の院 御廟橋の北側、参道から約20m東側にある。
「紀伊國金石文集成」によると、総高250cm、幅35cmで、正面には次のように記されている。
(梵字)出天地間五十七年
清風迊空十音一聲
南無阿弥陀佛
いにしへハ はなさくはるに むかひしに
にしにくまなき 月於ミるかな
右頌歌者正和元(年)四廿七午尅
大中臣弘泰法師沙弥心浄
臨終之刻誦之率畢
正和元年壬子六月 日
大施主比丘尼心恵 敬白
木下浩良氏によると、大中臣弘泰が正和元年(1312)に亡くなる前に、
「古へは 花咲く春に 向かいしに 西に隈なき 月をみるかな」 と辞世を詠み、
妻と思われる大施主比丘尼心恵が造立したという。
紀州の文学碑・一二〇選には、次の解説がある。
「むかしは 花の咲く春に心が向いていたけれども 今は西の方にむかい、満月を仰ぎ見ていることだ」
(私は若い頃は華やかなもの、権勢のあるものにあこがれ、それを手に入れることが生甲斐だと思っていたが、
高野山にのぼった今は、西方浄土の仏陀をおがみ、満月のように澄み切った心をひたすら求めていることだ)といった意味。
板碑左側面には、沙弥道恵の筆になる梵字光明真言と無量寿経の四十八誓願の十八願が刻まれている。
板碑右側面には、建立に至る経緯が記載されている。
川勝政太郎氏によると、鎌倉幕府に属した大中臣弘泰という武家が、生前から高野山を慕っており、
同僚武家の藤原朝広沙弥西蓮と僧教圓が、尼心恵の依頼で建立したという。
愛甲昇寛氏によると、この塔婆は、辞世の和歌を刻んだ本邦最古の金石文として、
また真言道場である高野山に密教の梵字と浄土教の偈文を並べて表した卒塔婆として貴重であるとしている。→ 高野山内の歌碑、句碑、詩碑
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