大野城は、愛知県常滑市金山字城山にある。
一色氏は、14世紀中頃知多半島に進出し、観応元年(1350)頃に一色範光が青海山に大野城(宮山城)を築いた。
大野湊、伊勢湾の海運などで知多半島の実権を握るが、後に勢力が衰えた。
室町時代後期に近江から移住した佐治駿河守宗貞が、主家の内紛をついて宮山城主となった。
佐治氏は、大野・内海を拠点に大野衆・佐治水軍として半島西部や伊勢湾の海上交通を掌握し、初代宗貞から下記4代にわたって城主として統治した。
初代 佐治駿河守宗貞(するがのかみむねさだ) 享禄3年(1530)没
近江から移住して宮山城主となる。
二代 佐治上野守為貞(こうずけのかみためさだ) 弘治2年(1556)没
城内に斉年寺を建て、天文元年(1532)に雪舟の「慧可断臂図」を寄進した。
天文13年(1544)、連歌師 谷宗牧(たにそうぼく)が来城した。
三代 佐治八郎信方(はちろうのぶかた) 元亀2年(1571)没
永禄10年(1567)、連歌師 里村紹巴が来城した。
織田信長の妹 於犬(おいぬ)の方を妻として、信長に協力したが、元亀2年5月9日、伊勢長島の戦いで討死した。
四代 佐治与九郎一成(よくろうかずなり) 寛永11年(1634)没
城型展望台内部には、佐治一成肖像画の写真が展示されている。またすぐ南にある佐治神社には、佐治一成像が安置されている。
浅井長政とお市の方の三女 お江(小督)を妻とし、その後豊臣秀吉の命で離婚させられたと言われる。
(小和田哲男氏「戦国三姉妹物語」、「太閤素性記」ほか参照) → 浅井三姉妹ゆかりの地
一方、福田千鶴氏「江の生涯」によると、お江は、佐治一成と婚約はしたが、大野城へ輿入れはしていないとされている。
佐治与九郎一成は、小牧長久手合戦において秀吉方と家康方の争いに巻き込まれて大野城を追われ、伊勢に逃れ京都で病死した。
一成追放後、織田信長の弟 織田長益(有楽斎)が城主となり、大野城の水利の悪さから、北側の大草城の築城が開始され、大野城は廃城となった。
現在周囲は城山公園として整備されて散策を楽しむ事ができる。標高40mの高台にあるため、城型を模した展望台からは伊勢湾の大パノラマを望める。
昭和43年11月1日に「大野城跡」として、常滑市文化財に指定された。
名鉄常滑線大野町駅下車、徒歩20分。来訪者用の駐車場がある。
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