浅井三姉妹ゆかりの地

浅井三姉妹ゆかりの地を紹介します。

第1部 関係各地編


小谷城跡

小谷城跡は、滋賀県長浜市湖北町にある国史跡である。
浅井亮政が、大永年間(1521~28)に標高495mの小谷山に小谷城を築いた。
中世五大山城に数えられ、浅井氏三代(亮政、久政、長政)の居城となっていた。
小谷山の主峰 大嶽(おおずく)495mから東尾根は搦手となり、月所(げっしょ)丸、六坊跡と呼ばれている。
そこから、南方へ少し登ると山王丸があり、尾根伝いに、小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、番所などが続いている。
本丸東側の赤尾屋敷跡には、「浅井長政自刃之地」の石碑が建てられている。
元亀元年(1570)の姉川の合戦で織田信長に敗れた浅井長政は、当地の小谷城に籠城して信長軍と対峙したが、周辺の支城は落とされて孤立することとなった。
その後、信長軍は越前で朝倉義景を滅ぼし、小谷城に戻って、豊臣秀吉が小丸を攻め、浅井久政が自害した。
小谷城本丸への攻撃が始まったため、浅井長政は正室お市と娘の三姉妹(茶々、お初、お江)を城から出し、激闘を繰り広げたが、天正元年(1573)9月1日に赤尾屋敷内で自刃した。
浅井氏三代の墓は、長浜の徳勝寺に建てられている。
平成19年(2007)には、小谷城戦国歴史資料館が開館している。
JR北陸本線河毛駅からバスで小谷城址口下車。



小谷山 実宰院

小谷山実宰院(じつさいいん)は、滋賀県長浜市平塚町にある曹洞宗の寺院である。
当寺は、鎌倉時代初期に天台宗の寺院として開創され、その後、小谷山(しょうこくさん)と号し実西庵(実才庵、実宰庵、実才院)と称した。
昭和29年(1954)に実宰院と改称し、現在は、曹洞宗総持寺系の禅寺となっている。

天文11年(1542)小谷山(おだにやま)二代目城主となった浅井久政の長女 阿久姫は、仏道修行を志し、小谷山の麓の清水谷にある医王寺(徳勝寺)三代に就いて出家し、昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)となった。
昌安見久尼は、父 久政に一宇建立を懇願したため、久政から当時平野庄を治めていた平野左近助に頼状をつかわし、天文11年(1542)3月5日平塚の地に無住となっていたこの庵を再興させた。

寺伝によると、本尊の聖観世音菩薩は、宇多天皇の持仏で、のちその後裔 京極佐々木氏の持仏であったと伝えられている。
京極高次が小谷山京極丸に陣取った時、その鎮守 天満宮とともに浅井久政に委嘱し、久政がよく礼拝していたが、昌安見久尼の出家得度にあたり、実西庵に遷仏して恭服したという。

元亀元年(1570)姉川の合戦で浅井長政が織田徳川連合軍に敗れ、天正元年(1573)には小谷城が落城し、浅井久政と長政は、小谷山で自刃した。
落城の前に、浅井長政は、妻のお市の方と茶々、お初、お江の三人の姫を城から脱出させ、姉の昌安見久尼に託したという。
また、お市の方が柴田勝家と共に自害してからも三人の姫をこの庵で匿ったと言われている。
三人の姫を養育した由縁で、実西庵護持のため、豊臣秀吉から庵料として五十石の朱印地を与えられた。

寺宝として、昌庵見久尼木像(淀殿寄進)、実宰院縁起、豊臣秀吉朱印状、豊臣家四奉行連署状等を有している。
昭和45年には境内に「浅井三代開基昌庵見久禅尼顕彰碑」が建立され、浅井町史蹟保存会が設立された。
JR北陸本線虎姫駅からタクシーで10分。





徳勝寺 浅井三代墓

徳勝寺、浅井三代墓は、滋賀県長浜市にある。
興福山徳勝寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来である。
寺伝によると、応永年間(1394-1428)に通峰真宗和尚(つうほうしんしゅうおしょう)を開基として、上山田村(長浜市湖北町上山田)に創立されたといわれ、初めは医王寺と号した。
永正15年(1518)浅井亮政の小谷城築城に伴い、龍山株源を中興として山麓の清水谷に移し、浅井氏の菩提寺とした。
姉川の合戦の後、天正2年(1574)に織田信長によって浅井氏が滅亡し、かわって湖北を掌中におさめた豊臣秀吉がその居城を小谷から長浜に移した。
その際、文禄4年(1595)当寺も長浜城内に移され、浅井亮政の法号(徳勝寺殿)に因んで「徳勝寺」と改称された。
慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主として封じられた際に一旦田町(現朝日町内)に移築されたが、寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝により現在地に移され、寺観も整備された。
元和3年(1617)2代将軍徳川秀忠は寺領33石余を安堵し、寛文12年(1672)浅井長政百回忌に際し、幕府は祭祀料を施入している。
幕府や井伊家などの保護は、徳川秀忠夫人が、浅井長政三女のお江(崇源院)であったためである。

徳勝寺には、寺宝として、天正4年羽柴秀吉寺領寄進状、羽柴秀勝寺領寄進状が伝わっており、いずれも長浜市の文化財に指定されている。
羽柴秀勝寺領寄進状は、当時八世住職 源秀(げんしゅう)和尚が、秀吉の養子 お次丸秀勝の学問の師としてあおがれていたので、寺領が寄進されたといわれている。

当地の長政墓には、「養源院」と記された木製卒塔婆が建てられている。
文禄3年(1954)豊臣秀吉側室となっていた浅井長政の長女 淀殿は、亡父浅井長政(1545-1573)の菩提を弔うため、二十一回忌に京都に養源院を建立している。
養源院の開山は、比叡山の高僧であった長政の従弟 成伯法印(浅井石見守亮親の二男)で、寺名は長政の法名(養源院天英宗清)をとって、養源院とした。
その後火災で焼失したため、元和7年(1621)淀殿の妹(浅井長政の三女)で徳川秀忠の正室 お江(崇源院)が、伏見城の遺構を用いて養源院を再興した。

また、和歌山県高野山奥の院には、浅井長政の供養塔が建立されている。
京極高次に嫁いだ長政の次女 お初(常高院)が建立したといわれている。






伊勢 上野城跡

伊勢 上野城跡は、三重県津市河芸町の本城山青少年公園にある。
伊勢上野城は、伊勢街道沿いの旧上野宿の西側背後に造られた城で、室町時代に造られたと推定されている。
当時安濃郡分部(現在の津市分部)を本拠地としていた分部氏が、いつのころからか長野(工藤)氏の一族となり、天文17年(1548)ころ長野氏からこの城を預けられて在城した。
永禄11年(1568)に、長野氏は織田信長の伊勢侵攻により信長軍と戦ったが、後に和睦して長野氏は信長の弟 織田信包(のぶかね)(1543-1614)を養子とし、信包は長野氏の宗主として永禄12年(1569)伊勢上野城の城主(5万石)となった。
その後 信包は、上野城を安濃津の仮城として、翌年の元亀元年(1570)から、上野城を分部左京亮光嘉に命じて新たに築城し直し、山の上の平地を城地に編入している。
信包は、本城の安濃津城を築城するため、適地を家臣の瀧川一益に選ばせ、元亀2年(1571)から分部光嘉を普請奉行として、現在の津城跡の地で工事に着手した。


天正元年(1573)に浅井長政が織田信長に敗れて、近江国小谷城が落城すると、信長の妹(浅井長政正室) お市の方と三姉妹(茶々、初、江)が、岐阜城、清須城滞在後に、天正2年(1574)に(伊勢上野城の)信包(信兼)の元に預けられたと伝えられている。
すなわち 織田信長の伝記として知られる「総見記」には、お市の方と三姉妹は供の藤懸長勝(ふじかけながかつ)と木村小四郎(きむらこしろう)を従え小谷城を退去し、「備州(長政)ノ内室ハ正シク御妹ナルカ故ニ、暫時ノ間ハ上野介信包ニ預ケ置カル」とある。
(小和田哲男氏「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」「江史跡紀行」参照)
しかし近年の研究によると、お市の方と三姉妹は、伊勢上野城ではなく、信長の叔父の織田信次に預けられ、尾張国守山城で過ごし、その後岐阜城に移ったとされる。
(宮本義己氏「誰も知らなかった江」 『渓心院文(けいしんいんのふみ)』 黒田基樹氏「お市の方の生涯」参照)

天正8年(1580)安濃津城が築城されると、信包は安濃津城に移り、上野城は分部光嘉が城代となった。
本能寺の変の後、信包は近江国に転封となり、分部光嘉が豊臣秀吉から一万石を与えられて上野城主となった。
慶長6年(1601)分部光嘉の病死後、娘が嫁いだ雲林院城主 長野治右衛門正勝の養子 光信が上野城主となった。
慶長13年(1608)藤堂高虎が津藩主となると、上野藩領は紀州藩領となって、上野藩は廃藩となり、元和5年(1619)上野城主 光信は近江国大溝へ転封となり、上野城は廃城となった。





守山城跡

守山城跡は、名古屋市守山区の宝勝寺北側にある。
当地の入口にある案内板には、次のように記されている。
    守山城跡
平山城。林の中に大規模な東西方向の堀が見られる。
築城年代、創建者ともに不詳。
大永六年(一五二六)連歌師 宗長(そうちょう)がこの城を訪れ、連歌の会が盛大に催されたと伝えられる。
天文四年(一五三五)徳川家康の祖父 松平清康が大軍を率いてこの地に布陣、尾張攻略を図ったが家臣に殺害された。
その後、織田信長の叔父 信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦後、廃城となったとされる。
   名古屋市教育委員会

住宅西側の城跡とされる丘の上には、石碑があり、次のように刻されている。
  守山城趾  愛知懸
天文年間 松平清康 尾州ヲ略セント欲シ此地ニ陣シ
偶臣下ノ爲ニ弑セラレ後 織田信秀ニ属シ 其ノ支族ハ数世之レニ居ル
  大正五年四月建之

天正元年(1573)に浅井長政が織田信長に敗れて、近江国小谷城が落城すると、信長の妹(浅井長政正室) お市の方と三姉妹(茶々、初、江)が、岐阜城、清須城滞在後に、天正2年(1574)に(伊勢上野城の)信包(信兼)の元に預けられたと伝えられてきた。
すなわち 織田信長の伝記として知られる「総見記」には、お市の方と三姉妹は供の藤懸長勝(ふじかけながかつ)と木村小四郎(きむらこしろう)を従え小谷城を退去し、「備州(長政)ノ内室ハ正シク御妹ナルカ故ニ、暫時ノ間ハ上野介信包ニ預ケ置カル」とある。
(小和田哲男氏「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」「江史跡紀行」、「総見記」 「浅井三代記」参照)
しかし近年の研究によると、お市の方と三姉妹は、伊勢上野城ではなく、信長の叔父の織田信次に預けられ、尾張国守山城で過ごし、その後岐阜城に移ったとされる。
浅井三姉妹の次女 「初」ゆかりの江戸城大奥の老女 渓心院の覚書写本「渓心院文」には、「御いちさまと御ひめさま御さんかたは、のぶ長様のおじご(織田信次)さまの御かたへ御のけなされ候よし」と記されている。
(宮本義己氏「誰も知らなかった江」 「渓心院文(けいしんいんのふみ)」 黒田基樹氏「お市の方の生涯」参照)

名鉄瀬戸線 矢田駅下車、徒歩10分。





大野城

大野城は、愛知県常滑市金山字城山にある。

一色氏は、14世紀中頃知多半島に進出し、観応元年(1350)頃に一色範光が青海山に大野城(宮山城)を築いた。
大野湊、伊勢湾の海運などで知多半島の実権を握るが、後に勢力が衰えた。
室町時代後期に近江から移住した佐治駿河守宗貞が、主家の内紛をついて宮山城主となった。
佐治氏は、大野・内海を拠点に大野衆・佐治水軍として半島西部や伊勢湾の海上交通を掌握し、初代宗貞から下記4代にわたって城主として統治した。
初代 佐治駿河守宗貞(するがのかみむねさだ) 享禄3年(1530)没
    近江から移住して宮山城主となる。
二代 佐治上野守為貞(こうずけのかみためさだ) 弘治2年(1556)没
    城内に斉年寺を建て、天文元年(1532)に雪舟の「慧可断臂図」を寄進した。
    天文13年(1544)、連歌師 谷宗牧(たにそうぼく)が来城した。
三代 佐治八郎信方(はちろうのぶかた) 元亀2年(1571)没
    永禄10年(1567)、連歌師 里村紹巴が来城した。
    織田信長の妹 於犬(おいぬ)の方を妻として、信長に協力したが、元亀2年5月9日、伊勢長島の戦いで討死した。
四代 佐治与九郎一成(よくろうかずなり) 寛永11年(1634)没
    城型展望台内部には、佐治一成肖像画の写真が展示されている。またすぐ南にある佐治神社には、佐治一成像が安置されている。
    浅井長政とお市の方の三女 お江(小督)を妻とし、その後豊臣秀吉の命で離婚させられたと言われる。
    (小和田哲男氏「戦国三姉妹物語」、「太閤素性記」ほか参照)
    一方、福田千鶴氏「江の生涯」によると、お江は、佐治一成と婚約はしたが、大野城へ輿入れはしていないとされている。
    佐治与九郎一成は、小牧長久手合戦において秀吉方と家康方の争いに巻き込まれて大野城を追われ、伊勢に逃れ京都で病死した。
    
一成追放後、織田信長の弟 織田長益(有楽斎)が城主となり、大野城の水利の悪さから、北側の大草城の築城が開始され、大野城は廃城となった。

現在周囲は城山公園として整備されて散策を楽しむ事ができる。標高40mの高台にあるため、城型を模した展望台からは伊勢湾の大パノラマを望める。
昭和43年11月1日に「大野城跡」として、常滑市文化財に指定された。

名鉄常滑線大野町駅下車、徒歩20分。来訪者用の駐車場がある。




岐阜城(稲葉山城)

岐阜城(稲葉山城)は、岐阜市金華山にある。
金華山は標高328mで、古くは稲葉山と呼ばれ、建仁元年(1201)鎌倉幕府政所(まんどころ)執事を務めていた二階堂行政(まさゆき)が、最初に城を築いたといわれている。
のち、美濃守護 土岐氏の時代には守護代の斎藤氏が代々居城した。
天文3年(1534)斎藤道三(どうさん)によって戦国の城として再興され、子の義龍(よしたつ)、孫の龍興(たつおき)が城主となった。

永禄10年(1567)道山娘婿の織田信長が斎藤龍興と戦って稲葉山城を落とし、入城した。
信長公記などでは、信長は入城に際して、古代中国周王朝の発祥の地にちなんで「岐阜」「岐山」「岐陽」などの候補から「岐阜」の名を選んだとしており、
このころから「井之口」と呼ばれていた町の名も「岐阜町」と呼ばれることとなった。
信長は楽市場を保護するなど城下町の整備につとめ、山下の居館の華麗さ、城下の繁栄はルイスフロイスの日本史に詳しく記されている。
その後、信長長男の織田信忠、信長三男の神戸信孝、池田元助、池田輝政、豊臣秀勝、信長の孫(三法師)織田秀信が岐阜城主となった。
慶長5年(1600)織田秀信は西軍の石田三成方に味方して徳川方と戦い、福島正則、池田輝政に攻められて開城した。

慶長6年岐阜城は廃城となり天守閣、櫓などは取り壊されて奥平信昌の加納城に移築され、江戸時代には金華山頂に天守閣が建てられることはなかった。
明治43年(1910)に木造の模擬城が建てられたが、昭和18年(1943)に焼失し、昭和31年(1956)に岐阜市民の浄財によって三層四階の天守閣が再建された。
平成9年(1997)に改修され、内部は展示室及び展望台となっている。また併設して岐阜城資料館がある。

黒田基樹氏「お市の方の生涯」(2023年刊)によると、お市の方と浅井三姉妹は、「小谷城退去から一年ほどは、尾張守山城に居住し、天正二年後半からは岐阜城に居住したとみなされる。」とされている。
金華山ロープウェー山頂駅から徒歩10分。麓の岐阜公園に来場者用駐車場がある。




北ノ庄城址

北ノ庄城址 柴田神社は、福井市中央にある。
北ノ庄(北庄)は、越前国足羽(あすわ)郡の伊勢神宮領足羽御厨の北庄であったことに由来する地名である。
福井平野の中央に位置し、太平記には足羽七城の一つとして記されており、戦国時代に朝倉氏が当地に一族を配置し領国経営を進めた。
天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡すると、織田信長は北ノ庄三人衆として、木下祐久、明智光秀、津田元嘉を配し、天正3年(1575)に柴田勝家が北ノ庄城を築城した。
北ノ庄城は、9層の天守閣を持つ日本最大級の城であったとの記録が残っている。
天正11年(1583)賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、北ノ庄城に逃れて自ら城に火を放ち、妻のお市の方とともに最期を遂げた。
このとき、お市の娘 浅井三姉妹(茶々、初、江)は、落城寸前に城から出されて、秀吉に保護された。

現在は、勝家公を主祭神とし、お市の方を配祀する柴田神社や、三姉妹神社が建立されており、柴田勝家公像や、お市の方、三姉妹の像も建てられている。
また柴田勝家とお市の方の辞世を刻した石碑が建てられている。
 柴田勝家辞世
  夏の世の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山時鳥(ほととぎす)
 お市の方辞世
  さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそう 時鳥かな
柴田勝家公とお市の方の墓は、当地から約1km西南方向の西光寺にある。
JR北陸本線福井駅下車、徒歩5分。



西光寺

光明山 乗律院 西光寺は、福井市にある寺院である。
延徳元年(1489)、一乗谷当主 朝倉貞景の発願により内ケ国(現 次郎丸町)に創建された。
開山は、天台真盛宗 宗祖で近江坂本の西教寺開祖の真盛である。
天正10年(1582)北ノ庄主 柴田勝家が福井発展のため現在地に移築し菩提寺とした。(移転時期は諸説あり)
当地には、柴田勝家と妻お市の方の墓所がある。
慶長年間 山中山代の守長俊の創建によるもので、勝家、お市の方、勝豊(勝家の甥で丸岡城城主)及び勝家の一子 作次郎の墓が合祀されている。
墓所に隣接して、里程元票が建立されている。
柴田勝家が足羽川に築いた九十九橋は、半木半石の奇橋として知られ、南側半分は石材を使い、北側半分は木材を使用して造られた。
これは水流の強弱によって石と木を使い分けたとも、また敵の攻撃を阻止する軍略上の策とも言われている。
明治42年(1909)7月鉄筋橋に改葬された際、その橋桁で里程元票を作り、橋に建立されたが、後に勝家公の遺徳を顕彰するため、菩提所である当寺で保存することになった。
境内には、柴田勝家公資料館があり、馬印や念持仏、北庄城時代の鬼瓦などが保存されている。




自性院

寿薬師 自性院は、福井市西木田にある天台宗の寺院である。
お市の方の菩提寺で入口の石柱には、「如意輪山願應寺 寿薬師 自性院」と刻されている。
自性院縁起によると、奈良時代に、清池院日乗上人を開祖として、越前東郷赤坂岡山に開創され、紫雲山佛光寺と称した。
その後、慶長10年(1605)に現在地に移転した。
この年は、江戸幕府の2代将軍に徳川秀忠が就任した年で、秀忠公正室のお江与の方(お江)の生母 お市の方の23回忌に当たる。
福井城の初代藩主 結城(松平)秀康は、徳川家康の二男で秀忠公の兄にあたる。
当地は福井城下南の砦の地で、天正11年(1583)にお市の方が、夫 柴田勝家公と共に自害した北ノ庄城下でもあった。
そのため、お市の方の菩提を弔うため現在地に移り、お市の方の院号(「自性院」微妙浄法大姉)を賜り、如意輪山願應寺自性院(じしょういん)と改称した。
以後、お市の方の菩提寺となった。境内にはお市の方碑が建立されており、位牌も安置されている。
福井鉄道「木田四ツ辻」下車、徒歩3分。



大津城跡

大津城跡は、滋賀県大津市浜大津にある。
大津城跡石碑から約20m東側の歩道橋階段横に「大津城本丸跡」の案内板があり、次のように記されている。

大津城本丸跡
大津城は、天正14年(1586)頃、豊臣秀吉の命で坂本城を廃して築城、慶長6年(1601)の膳所城築城後は、大津代官所・幕府蔵となった。
大津港付近を中心に築かれた水城で、慶長5年関が原の合戦の直前、徳川方の城主 京極高次が籠城して毛利軍を一時足止めしたことで知られている。

案内板に記されているように、大津城主 京極高次は、毛利元康を大将とする1万5千の軍勢に包囲され、猛攻を受けた。
京極軍は善戦するが6日後、城は本丸を残すのみとなり、降伏した。京極高次は降伏後、高野山に向かっている。
高野山奥の院には、大津籠城戦死者追弔碑が建立されている。

関ヶ原合戦前、京極高次と初夫婦は、高次姉(妹?)の松の丸殿(京極龍子)とともに大津城に居た。
当時の状況については、小和田哲男氏が「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」で詳細に詳細に紹介されている。



妙教寺 淀古城跡

妙教寺、淀古城跡は、京都市伏見区納所(のうそ)北城堀にある。
淀古城については、文明10年(1478)山城国守護が淀に入部するとの記事があり、山城国下5郡(山城国北半部)の守護所が置かれたという。
豊臣秀吉は、この淀古城を改修し、側室茶々(淀殿)が出産をする城とした。淀城で生まれた鶴松は三歳で病死し、秀吉は文禄3年(1594)に淀城を廃城とし、資材の多くは伏見城建築に使用された。
妙教寺は、寛永3年(1626)大坂の富豪商人、法華又左衛門尉貞清の発願により、淀古城下の一角に建立された法華宗真門流の寺院である。
宝泉院日孝を開山上人に仰ぎ、寺地は新しい淀の初代城主、松平定綱から寄進を受けた。→ 淀城跡、與杼(よど)神社
18世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き伽藍を焼失した。現在の本堂は天保11年(1840)に再建されたものである。
慶応4年(1868)戊辰戦争鳥羽伏見の戦いでは周辺が戦場となり、1月4日本堂の壁、柱を砲弾が貫通し、その砲弾が保存されている。
境内には淀古城跡の碑や榎本武揚揮毫の戊辰之役東軍戦死者招魂碑、戦没学徒木村久夫の碑、当山鎮守きつね「小満・小女郎」の塚がある。
京阪本線淀駅下車徒歩10分。




養源院

養源院は、京都市東山区にある浄土真宗遣迎院(けんごういん)派(もと天台宗)の寺院である。俗に桃山御殿と呼ばれる。
本尊は阿弥陀如来である。
文禄3年(1954)豊臣秀吉の側室淀殿が、亡父浅井長政(1545-1573)の菩提を弔うため、二十一回忌に建立した。→ 徳勝寺 浅井三代墓
開山は、比叡山の高僧であった長政の従弟 成伯法印(浅井石見守親政の二男)で、寺名は長政の法名(養源院天英宗清)をとって、養源院とした。
その後火災で焼失したため、元和7年(1621)淀殿の妹で徳川秀忠の正室 お江(崇源院)が、伏見城の遺構を用いて再興した。
本堂(客殿)の廊下の上の天井は、「血天井」と呼ばれている。
慶長5年(1600)8月に、伏見城の戦いが行われ、石田三成などの軍勢に討ち取られる直前に、徳川方の鳥居元忠らの武士が伏見城内廊下で自刃し、その兵士らの血で染まった板を天井に上げて残されている。
後水尾天皇の中宮 東福門院和子(まさこ)(秀忠の五女)が、お江の七回忌の年に秀忠が亡くなったので、両親の大きな位牌を祀り、兄の徳川家光が亡くなった時も位牌を安置しており、以降徳川(歴代)将軍の位牌所となった。
内仏室には、浅井長政の正室 お市の方の位牌も安置されている。
平成28年に、本堂(客殿)、護摩堂、中門、鐘楼堂が国の重要文化財に指定された。
本堂(客殿)には、俵屋宗達の描いた障壁画(「岩に老松図」「麒麟」「白象」「唐獅子」)がある。
本堂南側には、淀殿が母の「お市の方」を供養するために建てた供養塔がある。
境内奥には、東福門院和子が崇源院七回忌に建立した宝篋印塔がある。→ 浅井三姉妹ゆかりの地
京都市バス博物館三十三間堂前下車、徒歩3分。





三寶寺

金映山 妙護国院 三寶寺(さんぼうじ)は、京都市右京区鳴滝松本町にある日蓮宗の寺院である。
周山街道北の白砂山(しらすなやま)の中腹にある。
江戸時代初期の寛永5年(1628)に、右大臣 今出川(菊亭)経季(つねすえ)と中納言 今城(中山)為尚(ためひさ)が後水尾上皇の内旨を受け、日護(にちご)上人を開山として創建した。
以降、両家の菩提寺として繁栄し、最盛期には12の塔頭を有し、千宗旦(せんのそうたん)の弟子 山田宗徧(そうへん)も塔頭の涼池院(りょうちいん)で茶道の研究に努めた。
本堂には釈迦如来像、千体佛堂には六尺坐像の釈迦佛と三寸立像の釈迦佛千体が安置され、ともに日護上人の作と伝えられている。
妙見堂には、開山日護上人自作の北辰妙見大菩薩が祀られており、「鳴滝の妙見さん」と呼ばれ、願いが叶うことから「満願妙見宮」と親しまれている。
本堂脇の桜は、京都御所の旧今出川邸から移植したもので、余りの美しさに帝が車を返したことから「車返しの桜」といわれ、その名のとおり毎年美しい花を咲かせている。
境内には、仁孝天皇の皇子 常寂光院の墓がある。
また妙見宮に登る階段横には、豊臣秀頼、国松丸、淀君の三方の供養塔がある。
この塔を摩(な)でさすれば良縁を得、早く縁づくことができると言われることから、縁結びの塔と呼ばれている。
京都市バス三宝寺下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。




豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地・碑 

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地・碑は、大阪市中央区大阪城の山里丸にある。
豊臣秀頼(1593-1615)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名で、太閤・豊臣秀吉の子である。
秀吉の側室 茶々(淀殿)の第2子で幼名は捨て丸と呼ばれた。
慶長20年(=元和元年、1615年)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。
それに因んで、平成9年(1997年)、現在の山里丸の一画に大阪市が記念碑を建立した。
京阪電車天満橋駅下車、徒歩約20分。




太融寺

佳木山(かぼくさん)太融寺は、大阪市北区にある高野山真言宗の寺院である。
最盛期の寺域は、西は梅田、東は扇町、南は老松町、北は堂山町を結ぶ広大なものであった。
扇町公園がそっくり寺の庭、お堂の合ったところが堂山町、若松が生えていたところが若松町と、町名が寺の境内に由来していることがわかる。
創建は弘仁12年(821)で、弘法大師がこの地を訪れた時、樹林の間から異香を放つ霊木を見つけ、これを切って自ら地蔵、毘沙門の二体を刻み、嵯峨天皇の勅願寺として草建した。
本尊の千手千眼観世音菩薩は、天皇の守り本尊といわれる。
845年に、嵯峨天皇の皇子源左大臣融(とおる)公が、ここに七堂伽藍を建立したころから寺勢は栄え、太融寺の町名は融公に由来する。
境内北西角には、豊臣秀吉の側室 淀殿の墓がある。明治期に大阪城内から移され、戦災に遭ったが、今もひっそりとたたずんでいる。
また芭蕉の句碑も建立されている。
地下鉄谷町線東梅田駅から徒歩7分、JR大阪駅から徒歩10分。




大溝城跡

大溝城跡は、滋賀県高島市にある。
当地の案内板には、次のように記されている。
史跡 大溝城本丸跡
織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に大溝城が築かれた。
この城は、びわ湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承されている。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主 磯野員昌(かずまさ)が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(一五七八)二月三日その跡地を甥(弟信行の長男)織田信澄(のぶずみ)に宛行(あてが)い大溝城主とした。
城主に入った信澄は、高島郡の開発、発展に尽力するとともに、信長の側近として、また織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正十年六月二日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。
信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた。
大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(一六一九)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏に引きつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た。
この大溝城本丸跡は、平成八年三月高島町指定文化財となった。
 平成八年三月
   高島町教育委員会

京極高次(1563-1609)は、本能寺の変の後の山崎の戦いで、明智光秀に通じ天正10年6月長浜城に出陣した。
このため秀吉の追捕を受け、柴田勝家のもとに逃れたが、翌年勝家は賤ケ岳の戦いで秀吉に滅ぼされた。
秀吉の側室となった妹 竜子の嘆願などにより秀吉に仕え、天正14年(1586)京極高次は九州攻めの功により、大溝城一万石の領主となった。
翌年、浅井三姉妹の次女 初(常高院)を正室とした。
初の大溝での暮らしは、記録が残されておらず、詳細は不明であるが、嫡男 忠高の生母 於崎は大溝藩内の勝野の出身である。
(芝田寿朗氏 「史跡で歩く お初の生涯」「江史跡紀行」所収)




小浜城跡 小浜神社

小浜城跡、小浜神社は、福井県小浜市城内にある。
16世紀ころ蜘蛛の浜(のち雲浜と記し、「うんぴん」と呼称した)と呼ばれた当地の海岸一帯には、河川を遡上する魚を捕獲して生業を営む漁民が住んでいた。
関ヶ原の合戦の戦功で慶長5年(1600)に若狭国8万5千石の藩主となった京極高次は、慶長6年(1601)から小浜の山城 後瀬山城(のちせやまじょう)と山麓の旧守護館(武田氏の居館)を足がかりに、雲浜の浜に平城 小浜城(別称 雲浜城)の築城を開始した。小浜藩第2代藩主 京極忠高に至る33年間に城の大半を造り、京極家は松江(現 島根県)に転封となった。
寛永11年(1634)武蔵川越藩から小浜藩主となった酒井忠勝が築城を受け継ぎ、江戸城富士見櫓を手本にしたという天守閣の建設に着手し、寛永15年(1638)三層の天守が完成した。
その後明治4年(1871)まで、酒井氏15代260年間の居城となっていた。同年12月に小浜県庁が置かれたが、大阪鎮台第一分営設置工事中に二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失し、城郭の石塁を残すのみとなった。

本丸跡には、明治8年(1875)に旧藩臣らが建立した小浜神社が鎮座している。
祭神は、藩祖 酒井忠勝公と天御中主大神である。
酒井忠勝(1587-1667)は、江戸前期の譜代大名で、3代将軍徳川家光、4代将軍家綱時代の老中をつとめて、徳川幕府300年の礎を作った。常に江戸幕府に出仕し、小浜城に戻ったのは十数回で、延べ9か月ほどだという。
晩年 空印と号し、墓所は小浜市男山空印寺にある。
社殿東奥には八助稲荷がある。この稲荷のキツネが忠勝の使者として、若狭と江戸の往復したとの伝説が残されている。
社殿西側の井戸前には、古呂美橋の石がある。
「八百比丘尼がこの場で倒れたまま起きずして死す、故に名付けて古呂美橋という。京極家の地領の時に本丸に移す。」(向若録)
また、一説に酒井家の地領の時に雨傘などの防水塗料となるアブラギリの植え付けを命じた。これを扱う油屋は小浜で二百軒にもなり、京大坂で売られた。この実の形が石の形に似ており、その実のことが「ころび」と呼ばれていたという。




常高寺

凌霄山(りょうしょうざん) 常高寺は、福井県小浜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
常高寺は、江戸時代初期の小浜藩主京極高次の妻 常高院(お初の方)(浅井長政とお市の方の次女)によって建立された。
晩年江戸に滞在していた常高院は、自らの心の拠り所として、また夫高次の菩提を弔い、さらには父母等の供養のため、寛永7年(1630)息子の忠高が領する小浜の地に、一カ寺建立を発願し、小浜出身の槐堂周虎禅師を迎えて開山とした。
その後、常高院は寛永10年に江戸にて没し、その遺骸は後瀬山麓にある常高寺の境内地に葬られた。
寛永15年(1638)には、かつて豊臣秀吉から常高院に与えられ京極家が管理していた近江国蒲生郡の化粧料地2045石の内から、300石を寺の経営基盤として認める将軍徳川家光の朱印状が出されている。
京極家やその後の小浜藩主となった酒井家からも保護を受け、江戸から明治にかけて寺は隆盛を誇り、禅界の逸材も輩出した。
明治以降、寺領が没収され、大正12年には本堂焼失などの災難が続いたが、近年再建され境内地も整備された。
寺宝として、常高院肖像画、常高院自筆消息、御朱印状、江戸時代中期の狩野美信筆の障壁画などを有している。
俳人尾崎放哉が大正14年(1925)に寺男として住み込んだことから、句碑(浪音淋しく三昧や免させて居る)が建立されている。
JR小浜線小浜駅からタクシーで5分、参拝者用の駐車場がある。




常高院墓所

常高院墓所は、福井県小浜市常高寺境内にある。
常高院栄昌尼は若狭領主、京極若狭守高次の妻 お初の方で、浅井長政を父とし、織田信長の妹お市の方を母として小谷城で生まれた。
姉は、豊臣秀吉の側室 淀殿で、妹は徳川幕府2代将軍秀忠の妻 お江(小督)である。
お初の方は、寛永7年(1930)に常高寺を建立後、寛永10年(1633)8月27日に京極家の江戸屋敷で亡くなり(67歳)、遺体は塩漬けにされて小浜城に帰り、常高寺での葬儀の後荼毘に付され、当地に埋葬された。
墓石は高さ4mの砂岩製宝篋印塔で、法名の常高寺殿松岩栄昌大姉が刻されている。

宝篋印塔を中心に七人の侍女の墓と常高寺に得度した多数の尼僧の墓がある。
小和田哲男氏監修の「江史跡紀行」によると、お初の慈悲深く温かい人柄ゆえに、身近に使えた侍女が多数いたという。
その中でも、特に小少将、新太夫、小宰相、多芸(たき)、志毛、知也保(ちやほ)、揚琳、祖旭の八人が知られており、
小宰相を除く七人は、常高院没後に出家し、江戸から小浜に戻って尼屋敷に住んだが、京極家の出雲移封後に小浜藩主となった酒井忠勝の配慮で、栄昌院を総称する持仏堂と七院からなる寺院を営んだ。
明治維新となり京極家の支援が絶えたことから、栄昌院を守っていた後継尼僧は、常高院の位牌とともに丸亀の玄要寺へ移ったが、当時京極家は神道に代わり、その影響で尼僧も還俗した。
しかし、その中の3人は、当時の玄要寺の住職 南隠和尚出身の縁を頼りに岐阜県伊自良村へ常高院の位牌を奉じて移り、一寺を建立し、旧来どおりの常高寺の法類「後瀬山栄昌院」と名づけた。






後背山 栄昌院

後背山 栄昌院は、岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
栄昌院(えいしょういん)は、織田信長の妹であるお市の方と浅井長政との間に生まれた三姉妹(茶々・初・江)のうち、次女の常高院(初)の菩提寺である。
初は、近江の名門で若狭国(福井県)小浜城主となった京極高次に嫁いだ。
寛永10年(1633)に江戸で亡くなり、小浜にて荼毘に付され、常高寺に常高院供養塔が建立された。法名は常高院殿松厳栄昌大姉である。
常高院の没後、そのそば近くに仕えた侍女七人が小浜にそれぞれ寺庵を結び、全体を栄昌院と号して、常高院の菩提を弔い続けた。
明治維新を迎えたとき、尼僧たちは小浜から京極家の領地であった丸亀(香川県)に移った。
しかし、明治初期に京極家が祭祀を仏式から神式に改めたため、丸亀の玄要寺の縁を頼りに、尼僧たちが常高院の位牌とともに美濃国方県郡佐野村(岐阜市)に来住し、栄昌院を復興した。
山号の後背山(のちせざん)は、小浜にある常高院墓所の所在地の名である。
当寺には、妹の江から常高院に宛てた手紙などが伝来しており、常高院の供養塔と共に、寺を守ってきた歴代の尼僧たちの供養塔も建っている。
JR岐阜駅からバスを乗り継ぎ、伊自良四ツ辻下車、徒歩30分。



御香宮神社

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ、ごこうぐうじんじゃ)は、京都市伏見区桃山御香宮門前町にある。
祭神は、神功皇后、応神天皇、仲哀天皇ほか6柱が祀られている。

貞観4年(862)9月境内に香りの良い清泉が湧き出て、その奇瑞に因んで清和天皇から「御香宮」の社名を賜ったといわれる。本殿西側に御香水がある。
社名の由来については、もう一つの説があり、筑前国糟屋郡の香椎(かしい)の明神(神功皇后の廟)を勧請し、御香椎の宮の下の字を略して御香の宮としたといわれる。
中世に伏見宮家の庇護を受けて、伏見庄九郷の産土神として信仰を集め、有事の際の郷内の人々の集合場所として利用され、神事の際には猿楽、風流(ふりゅう)、相撲(すまい)などが勤仕されたことが、当時の日記に記されている。

文禄3年(1594)豊臣秀吉は、当社を伏見城の艮(うしとら)(北東)の大亀谷(おおかめだに)に移し、鬼門鎮護の神として、社領300石を寄進した。
現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康の命により、元の場所に造営したものである。
また徳川家康が伏見に滞在中に、徳川御三家の藩祖である紀伊(頼宣)、水戸(頼房)、尾張(義直)および二代将軍秀忠の娘 千姫が生まれたことから、徳川家の産土神として崇敬された。
そのため、現存する古い建物の多くは徳川家から寄進を受けている。

境内南側の大手筋通りには、「黒田節」誕生の地の案内板がある。
当地の伏見桃山で、黒田家家臣の母里太兵衛(もりたへい)が、酒宴で大杯に注がれた酒を見事に飲み干して、福島正則から「呑みとりの槍」を貰い受けたとの話が紹介されている。

大手筋通りの表門は、元和元年(1622)に水戸藩祖の徳川頼房が寄進した伏見城の大手門を移したものと伝えられている。
三間一戸、切妻造り、本瓦葺の薬医門で国の重要文化財に指定されている。
正面の4個の蟇股は、中国の二十四孝の物語(向かって右から揚香(ようこう)、郭巨(かっきょ)、唐夫人(とうふじん)、孟宗(もうそう)が描かれている。

表門を入った西側には、伏見義民の碑がある。
幕末の慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いでは、当社は新政府軍(薩摩藩)の陣営となり、南の伏見奉行所にいた幕府軍との戦いの舞台となったことから、本殿南西に「伏見の戦跡」の石碑が建てられている。
社務所内の石庭は、(小堀)遠州流の手法を生かして中根金作氏が作庭したもので、文明9年(1477)銘の見事な手水鉢がある。
10月1日から10日まで催行される「神幸祭(しんこうさい)」は、古くから伏見祭と呼ばれ、洛南一の大きな祭りとして知られている。

御香宮神社には、二代将軍徳川秀忠が長女千姫の誕生を祝って奉納した重さ600貫(2250㎏)の黄金の神輿(千姫神輿)が伝来している。
近鉄京都線桃山御陵前駅下車、徒歩2分。参拝者用の有料駐車場がある。





お江供養塔

お江供養塔は、京都市左京区の金戒光明寺墓地にある。
徳川秀忠夫人崇源院(1573-1626)の供養塔(宝篋印塔)である。
徳川幕府二代将軍の徳川秀忠の正室で三代将軍家光の生母である。名はお江(ごう)、お江与(おえよ)の方、お督(ごう)などと呼ばれた。諱は達子という。
近江小谷城主浅井長政の三女で、母は織田信長の妹 小谷の方お市である。
天正元年(1573)、織田信長によって包囲された小谷城落城の際、母と二人の姉(お茶茶、初)とともに逃れ、信長に養われた。
お茶茶は後に豊臣秀吉の側室 淀殿となり、初は若狭小浜城主京極高次の室 常高院となった。
天正10年(1582)母お市が越前北庄城主柴田勝家に再嫁する際、姉二人とともに伴われ、翌年、柴田氏が滅び、母お市が自害すると、三姉妹は豊臣秀吉のもとに引き取られた。
お江はその後、尾張大野城主佐治一成と結婚するが、秀吉の意向で離縁させられた。
秀吉の養女となって羽柴(豊臣)秀勝と再婚したが、秀勝は朝鮮に出陣し没した。
文禄4年(1595)徳川秀忠と結婚し、家光、忠長、千姫、子々姫、勝姫、初姫、和子(後水尾天皇中宮 東福門院)の二男五女を産んだ。
寛永3年(1626)9月15日没。享年54。法名は、崇源院殿昌誉和興仁清である。墓所は、東京芝の増上寺にある。
平成23年のNHK大河ドラマ「江(ごう)」のヒロインとして描かれたこともあり、墓地下段に案内板がある。
当地の墓は、三代将軍をめぐって崇源院と争った春日局(家光の乳母)が、同夫人の死後、追善菩提のため建立したもので、崇源院の遺髪が納められている。→ 駿河大納言 徳川(松平)忠長供養塔
高野山奥の院には、次男忠長が建立した五輪塔源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)がある。

福田千鶴氏「江の生涯」では、江の戒名「崇源院」は一般に「すうげんいん」(国史大辞典ほか)と読まれているが、
春日局が著したと推定される「東照大権現祝詞」のなかで「そうげんいんさま」と読まれ、「寛永諸家系図伝」仮名本(寛永20年(1643)編纂)において、「そうげんゐんでん」の読み仮名がつけられていることから、
同時代的には「そうげんいん」と称されていたとするのが正しい、としている。



千姫の墓

千姫の墓は、京都市東山区知恩院境内にある。
千姫(1597-1666)は、二代将軍 徳川秀忠の長女で、幼くして豊臣秀吉の息子 秀頼に嫁いだ。
大坂夏の陣で徳川家に保護され、その後姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻と再婚した。
本田忠刻が病死した後は、出家して天樹院と号して、江戸城の竹橋御殿で余生を過ごした。
墓所は、小石川伝通院と茨城県の天樹院弘経寺にあるが、徳川家が帰依した知恩院に分骨され宝塔に納められた。
また、高野山奥の院には、天樹院千姫供養塔が建てられている。
京都市営地下鉄東西線東山駅下車、徒歩15分。京都市バス知恩院前下車、徒歩10分。参拝者駐車場がある。



増上寺

三縁山 広度院 増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園にある浄土宗の大本山である。
開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、
文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきた。
江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康から深く帰依を受け、手厚い保護を受けた。
慶長3年(1958)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となった。
その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院であった。
2代将軍徳川秀忠、6代家宣(いえのぶ)、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の歴代6人の将軍と、お江、和宮を初めとする正室や側室の霊廟がつくられた。
そのほとんどの建物は第2次世界大戦の戦災で焼失した。戦後荒廃した墓地は売却され、昭和33年(1958)現境内右手奥の徳川将軍家墓所に改葬され、宝塔8基が建立された。
現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵している。
地下鉄大門駅下車徒歩5分。




傳通院(伝通院)

傳通院(伝通院)(でんづういん)は、東京都文京区小石川にある浄土宗の寺院である。
無量山寿経寺と号する。関東十八檀林の一つで、増上寺と並ぶ江戸浄土宗の名刹である。
応永22年(1415)浄土宗第七祖 了誉聖冏(しょうげい)が小石川極楽水に小庵を結び、無量山寿経寺と号したのが始まりで、聖冏を開山とする。
その後戦火で衰廃していたが、慶長7年(1602)8月29日徳川家康の生母 於大(おだい)の方が、上洛中伏見で亡くなると、遺言により遺骸を当寺に移し、増上寺の中興 源誉存応(ぞんのう)を導師として葬送の法会が行われた。
このとき、於大の法号 傳通院殿をもって寺号を改めたといわれるが、一説には、寺号を法号としたともいう。
慶長8年(1603)寺地を現在地に移し、壮大な堂塔伽藍が建立された。
1608年には、存応の高弟 正誉廓山を中興開山と定め、浄土宗の学問所たる関東十八檀林(だんりん)の一つに列せられた。
その後も徳川将軍家の女性を葬る菩提寺として遇され、830石の寺領を有して威勢を誇ったが、明治以降衰微し、第二次大戦の戦火で烏有に帰した。
戦後復興し、現在は本堂、書院、鐘楼などが再建されている。
墓所には、傳通院のほか、徳川秀忠の長女 千姫(天樹院)、徳川家光正室 孝子(本理院)、徳川家大奥代々の墓がある。
また、清河八郎、佐藤春夫、柴田錬三郎、杉浦重剛など、明治時代以降の墓も多くある。
地下鉄丸ノ内線後楽園駅下車、徒歩15分。







第2部 高野山編


奥の院 21町石付近 お初(常高院) お江(崇源院) 関係
京極忠高の妻 初姫供養塔


京極忠高の妻 初姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
初姫(1602-1630)は、徳川秀忠とお江(崇源院)の4女である。
お江は、娘の千姫(当時7歳)を豊臣秀頼(当時15歳)の居城 大坂城へ輿入れさせる際、身重の身で江戸から伏見城まで同伴した。
胎児が成長したため、お江は江戸にもどらず伏見城で出産した。
懐胎中から三人の姫に続いてまた姫の誕生となれば、お江の姉である お初(常高院)が貰い受けるとの約束があったので、お初は産屋からこの新生児(初姫)をもらい受けお初と京極高次の養女とした。
(宮本義己氏「誰も知らなった江(ごう)」 「渓心院文」参照)
京極忠高(1593-1637)は、京極高次の長男で、慶長14年(1609)若狭小浜藩藩主となった。
大坂冬の陣では玉造口を固めて、母の常高院とともに講和に関わり、夏の陣では京口に陣した。
寛永11年(1634)出雲、隠岐26万4千石に移封された。
忠高は、徳川氏の姻族として優遇され、慶長16年(1611)幕府が忠高家臣の紛争を処断した際、
忠高の借財弁済の費用750両を下賜したほか、城普請の費用三千両などを賜っている。
またお江(崇源院)から三千両などしばしば金銭を下賜され、崇源院の葬儀には位牌を奉持している。
嗣子がなく、死後に領地は没収となったが、のちに甥の京極高和に播磨竜野6万石が与えられた。
京極高和は、万治元年(1658)には、讃岐国丸亀藩(6万石余)に転封となった。
当地供養塔前には、高松松平家墓所の案内標柱がある。

当地の五輪塔地輪には、次のように刻されている。
施主 京極若狭守殿源朝臣
忠高公御簾中之追善
     奉爲興安園院殿
(梵字) 豊誉大清陽山
     大禅定尼出離
     生死頓證菩提
旹寛永七年庚午三月四日
      御宿坊 小坂坊 



奥の院 21町石付近 お初(常高院) お江(崇源院) 関係

源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)

源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院21町石の南西の参道から約20m入ったところにあり、持明院墓地の六角宝塔前には、丸亀京極家墓所の案内標柱が建てられている。
宝永4年(1707)「奥院絵図」などには、「源秀忠公御台所」と記されており、「高野山のしをり」などには、「崇源院殿墓」と書かれている。
徳川幕府二代将軍の徳川秀忠夫人 お江(1573-1626)の供養塔で、姉のお初が建立した。
お初は、浅井長政の次女で、京極高次の妻である。
京極高次の嫡男 京極忠高は、嗣子がなく、死後に領地は没収となったが、のちに甥の京極高和に播磨竜野6万石が与えられた。
京極高和は、万治元年(1658)には、讃岐国丸亀藩(6万石余)に転封となっている。

寛永3年(1626)お初(京極常高院)が、妹の崇源院の霊屋を建立後、万治2年(1659)の三十三回忌に4代将軍家綱公が費用を出して六角宝塔に建て替えたものである。
日野西眞定氏の「高野山民俗誌[奥の院編]」によると、六角宝塔各面に次の銘文が刻されている。

崇源院源夫人昌誉大姉尊
右 最初者、御霊屋為りと雖も、而るに、三十三回之年序を歴し、漸く破壊に及ぶ。
故に今、征夷大将軍 家綱公之釣令に依りて、御宝塔に再興する者也
  御宿坊 小坂坊祐遍
  萬治二巳亥年 九月十五日

宝塔内の無縫塔には、次のように刻されている。
   寛永三年丙寅年
  奉為崇源院源夫人昌誉大姉
   九月十五日

高野山奥の院30町石北西には、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立した崇源院供養塔(一番石)がある。
京都市左京区の金戒光明寺には、春日局が建立したお江供養塔がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩10分。国道371号線沿いに路側駐車帯がある。



22町石付近 淀殿 関係

淀君、豊臣秀頼五輪塔

淀君、豊臣秀頼五輪塔は、和歌山県高野山奥の院の上杉謙信霊屋西側にある。
淀君(1567年-1615年)は、豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の母である。
父は、近江浅井郡小谷城主の浅井長政、母は織田信長の妹 お市の方である。→ 高野山浅井三姉妹ゆかりの地
天正元年(1573年)に信長に包囲された小谷城から、母妹とともに脱出した。
1582年に柴田勝家に再嫁した母に従い、越前北之庄(福井)城に入った。
1583年に北之庄(福井)城が落城し、豊臣秀吉に庇護された。
その後、秀吉の側室となり、鶴松と秀頼を生み、元和元年(1615年)に大坂城落城により、秀頼とともに自刃した。

二基の五輪塔は、大きく欠損していたが、令和5年(2023)に修復された。

淀君五輪塔の総高は295cmで、墓石には、次のように刻されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
淀君の墓所は、大阪市北区の太融寺にある。

豊臣秀頼五輪塔は、総高302cmで、銘文は、次のように記されている。
 御取次筑波山知足院
 (梵字ア)嵩陽院殿秀山大居士尊儀
 慶長貮十乙卯年五月七日
秀頼の首塚は、京都市の清凉寺にある。 → 高野山奥の院豊臣家墓所




修復前の写真


26町石付近 三姉妹(三姉妹の義父 柴田勝家) 関係

奥の院中の橋西側に「柴田修理勝家墓所」と書かれた案内柱が建てられている。
江戸時代の奥の院図面に、「柴田シュリ」と書かれた墓所が描かれている。
また、南山奥之院諸大名石塔記にも、「柴田修理大夫殿 誓願院」との記載がある。
そのため、中の橋西側に柴田勝家の供養塔が建立されていたと考えられるが、上記の案内柱の石塔は、柴田修理勝家のものではないと言われている。→ 柴田修理勝家墓案内標柱


奥の院 30町石付近 お江(崇源院) 関係

松平忠直正室 勝姫(天崇院)供養塔

松平忠直正室 勝姫(天崇院)供養塔は、和歌山県高野山奥の院30町石西にある。
30町石の西約50mの位置にあり、東には勝姫の姉の天樹院千姫供養塔、西には越前福井藩主松平忠直供養塔がある。
また、天樹院千姫供養塔のさらに東には、千姫と勝姫の母 崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔(一番石塔)がある。
勝姫(天崇院)供養塔の五輪塔地輪には、次のように刻されている。
干時寛文十二年
壬子二月廿一日
     天崇院殿
(梵字) 穏譽泰安豊壽
     大禅定尼□霊
越後從三位行左近衛
権中将源朝臣光長
奉爲先妣追善造立

勝姫(天崇院)(1601-1672)は、徳川秀忠とお江(崇源院)の間に3女として生まれた。
千姫、珠姫は実姉、徳川家光、忠長は実弟である。
越前北の庄藩主 松平忠直と結婚して、1男2女を生んだ。
夫の忠直が不行跡で豊後に流された後、嫡男光長が越後高田藩に移封され、江戸の高田屋敷に住んだため、「高田の方」と呼ばれた。


30町石付近 お江 関係

天樹院千姫供養塔

天樹院千姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
千姫(1597-1666)は、徳川二代将軍秀忠の長女で、母は正室浅井氏お江(崇源院)である。
慶長8年(1603年)7歳の時に、11歳の豊臣秀頼に嫁した。
元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で、大坂城落城の前夜に坂崎出羽守直盛に救い出され、江戸に送られた。
翌年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁し、忠政が姫路に転封となったので、夫婦で姫路城に移った。
寛永3年(1626年)本多忠刻が病没したので、千姫は江戸城に戻り、落飾して天樹院と称し、竹橋御殿ですごし、墓石にあるように、寛文6年(1666年)に没した。(享年70歳)
五輪塔は、母親の崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔の西側に建てられている。
地輪正面には、次のように刻されている。
 大相國秀忠公御息女也
 天樹院殿栄誉
 源法松山禅定尼
 寛文六丙午天二月六日
千姫の墓所は、東京都小石川伝通院、茨城県常総市天樹院弘経寺、京都市知恩院にある。
大坂城脱出の際、徳川家康は姫を救出したものに千姫を与えると言っていたとして、再嫁のときに坂崎出羽守直盛が騒動を起こし殺害された事件は、よく知られている。
千姫は、大坂城落城の際、豊臣秀頼と側室の間に生まれた天秀尼を助け、天秀尼は鎌倉東慶院で尼僧となり生涯を終えた。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。



30町石付近 お江 関係

崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔

崇源院(徳川秀忠夫人)供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院墓石群の中で最も大きい(高さ6.6m)ことから、「一番石」の名で広く知られている。
この供養塔は、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母崇源院(江姫)(1573年-1626年)の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立したものである。

地輪及び台石には、次のように刻されている。
(表面)
   旹寛永四年丁卯九月十五日
   崇源院殿
(梵字)一品太夫人
   昌譽大禅定尼
  奉為先妣追善
    駿河大納言源忠長造立
(裏面)
   奉行 天野傳右衛門尉藤原清宗
       河合助之助 藤原重俊
 御宿坊 大徳院住持 宥雅
 梵漢筆者 大聖院  長盛
(台石)
 石作 泉州黒田村甚左衛門

江姫は、浅井長政と織田信長の妹お市の方の末娘で、豊臣秀吉の側室淀君の妹である。
お江の最初の婚姻相手は、佐治一成で、豊臣秀吉により離縁させられた。
2度目の結婚相手は、秀吉の甥の豊臣秀勝であったが死別した。
その後、徳川二代将軍秀忠の正室として、戦国時代から江戸時代にかけて波乱万丈の人生を送り、寛永3年(1626年)に享年54で死去した。
お江は、死後江戸の増上寺で荼毘に付されて埋葬されたが、その荼毘の火は、奥の院燈籠堂の火が使われた。
平成23年のNHK大河ドラマ「江」のヒロインとしてとりあげられている。
菩提所は、高野山の蓮花院で、和歌山県の指定史跡となっている。
奥の院21町石付近には、源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)がある。
京都市左京区の金戒光明寺には、春日局が建立したお江供養塔駿河大納言忠長供養塔がある。
京都市東山区の養源院には、江姫の五女 東福門院和子が建立した崇源院宝篋印塔がある。

福田千鶴氏「江の生涯」では、江の戒名は「崇源院殿昌誉和興仁清」で、一般に「すうげんいん」(国史大辞典ほか)と読まれているが、
春日局が著したと推定される「東照大権現祝詞」のなかで「そうげんいんさま」と読まれ、「寛永諸家系図伝」仮名本(寛永20年(1643)編纂)において、「そうげんゐんでん」の読み仮名がつけられていることから、
同時代的には「そうげんいん」と称されていたとするのが正しい、としている。

南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩約15分。中の橋駐車場を利用できる。



30町石付近(芭蕉句碑向かい) お初 関係

大津籠城戦死者追弔碑

大津籠城戦死者追弔碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
関ヶ原の役の後、京極高次が大津城に立て籠もり、東軍のために取り囲まれ、忠臣山田左衛門以下二十二士が全滅したときの供養碑である。
案内柱前の板碑は、慶長5年(1600)に建立された。東隣の京極家供養塔を挟んで、天和2年(1616)に再興された討死碑がある。。

西側の追弔碑には、次のように刻されている。
      山田三左衛門 磯野八左衛門 林五郎兵衛
      尾本善久 瓦關甚右衛門 伊藤角久
 (梵字) 草山源兵衛 香川又右衛門 河上小左衛門
      石黒又兵衛 横山久内 草山八兵衛
(梵字)大津城中討死之侍衆高次馬廻也
      篠宗兵衛 三浦五右衛門 藤岡又左衛門
 (梵字) 萩原佐兵衛 馬淵隠商 中池角兵衛
      小川左近右衛門 新保喜右衛門 石川久左衛門
      山田平兵衛 慶長五年庚子九月十三日

追弔碑東隣には、京極家供養塔があり、京極高吉、京極高次、京極朗徹の石碑がある。


京極家供養塔 京極高吉供養塔  京極高次供養塔

京極家供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院31町石南西の大津籠城戦死者供養塔に並列して建立されている。
京極高吉供養塔は、宝篋印塔で北面には次のように刻されている。
   江刕北郡京極
   山林寺殿
   道安大居士
   為成三菩提
   慶長六年辛丑二月彼岸
京極高次供養塔は、上部を欠いており、次のように刻されている。
   若狭小濱城主
   泰雲院殿宰相公
   (梵字ア)
   宗徹道閑大居士
   慶長十四五月三日
京極佐渡守朗徹(あきゆき)(大乗院)供養塔は、上部が無く、次のように刻されている。
   奉為京極佐渡守朗徹
   御實父京極能心齊高岡
   大乗院殿典嶺
   梵字ア 道香大居士
   嘉永五壬午年
   十二月十日寂
京極朗徹(1828-1882)は、讃岐国丸亀藩7代藩主で丸亀藩京極家9代の大名である。
墓所は、東京都港区の光林寺にある。



30町石付近 三姉妹関係

浅井長政供養塔

浅井長政供養塔は、和歌山県高野山の奥の院にある。
浅井長政(1545-1573)は戦国時代の北近江の大名で、幼名は猿夜叉丸、備前守と称した。
浅井氏の3代目として全盛期を築いたが、織田信長との戦いに敗れて29歳で自害した。
供養塔は京極高次に嫁いだ次女のお初(常高院)が建立したといわれ、大津籠城戦死者供養塔の東側にある。
宝篋印塔の銘文は、次のように刻されている。
   江刕浅井備前守殿
   爲天英宗清大居士菩提
   文禄元年九月朔日
なお、浅井長政の長女 淀殿は、天正17年(1589)に鶴松を産み、父母の追善供養(父17回忌及び母お市の方7回忌)を豊臣秀吉に願い出た。
この時に書かれた浅井長政画像とお市の方画像は、高野山持明院に残されている。
そして鶴松の病死後、文禄2年(1593)8月3日に豊臣秀頼を産んでいる。
この年は、亡き父浅井長政の二十一回忌に当たっていたため、淀殿は秀吉に「亡父浅井長政の菩提のために一寺を建立したい」と願い出て、文禄3年5月に養源院が建立された。
浅井長政の三女 お江が、徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍の家光を生んだため、浅井長政は将軍家光の外祖父となり、寛永9年に従二位中納言の官位が授与されている。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院前下車、徒歩15分。



32町石付近 三姉妹関係

豊臣家墓所

豊臣家墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
この墓所には、豊臣秀吉(1537-1598)とその母、秀吉の弟である大納言秀長と夫人など豊臣一族の墓がある。
現在、石塔が11基並んでいる。
そのうち、中央の1基(303cm)は、昭和15年(1940年)、豊公会によって造立されたもので、京都の豊国廟から霊土を移したという。
五輪塔の正面には、「豊臣太閤秀吉公之墓」と記されている。
この五輪塔の内部には、秀吉の衣冠束帯姿の古い木造が納められている。

紀伊名所図会には、江戸時代の奥の院が描かれており、そこには10基の石塔が描かれている。
また、宝永4年(1707)に描かれた「奥の院絵図」(金剛峯寺蔵)には、下の写真の通り10基の石塔が描かれ、8基には次の通り石塔名が記されている。
大納言殿北方、大光院殿前亜相、太閤秀吉公、春厳貞松、前関白秀次公、石田治部少輔、三位法印、御上臈

「紀伊国金石文集成」「和歌山県の文化財第一巻」「近世大名墓の成立」「高野山金石図説」「木下浩良氏講演資料」によると、次の石塔が説明されている。
①宝篋印塔 総高 四尺八寸
 (銘文)不明(剥落して文字無し)
②三位後室逆修塔(L3) 豊臣秀吉の姉 豊臣秀次の母 「智(とも)の方」123.5cm → 瑞龍寺(村雲御所) 豊臣秀次の墓(高野山光臺院)、瑞泉寺
 (銘文)天正廿年 ア 三位法印後室 逆修 五月七日
③法性院殿五輪塔 総高六尺 水輪以上の四輪は他石
 (銘文)施主生國相刕住 浅野清兵衛 友重立之
     法性院殿 ア 爲 菩提 接譽得授大姉 慶安四天三月廿一日入寂
④北方慈雲院逆修塔(L1) 豊臣秀長の正室 198cm
 (銘文)大納言殿北方慈雲院 ア 芳室紹慶 逆修 天正十九年五月七日
⑤豊臣秀長塔(R1) 豊臣秀吉の異父弟 総高六尺
 (銘文)大光院殿前亜相 ア 春岳紹榮大居士 天正十九年正月廿二 → 大光院 大納言塚
⑥青厳貞松逆修塔(R2) 豊臣秀吉の母堂 170cm
 (銘文)天正十五年 ア 青厳貞松 逆修 六月廿一日
⑦五輪塔地輪の上に不動明王石仏 勝海院殿 → 安芸浅野家供養塔(浅野長勝 勝海院)
 (銘文)法印隆観 泰春房 寶歴廿?辰 六月三日寂
     勝海院殿 ア 金光居士 天正三乙亥九月八日寂     
⑧樹正院殿五輪塔 秀吉養子息女 豪姫(前田利家四女、宇喜田秀家正室) → 金沢市野田山の前田家墓所
 (銘文)前相國秀吉公御養子 息女 樹正院殿 ア 逆修 命室壽光
     慶長廿年卯月十五日
⑨玉厳麟公神童塔(L2) 豊臣秀吉の長男 鶴松 180cm → 京都市妙心寺 塔頭玉鳳院
 (銘文)天正廿秊 ア 玉厳麟公神童 浅野弾正少弼造之 二月時正
⑩御上臈逆修塔(R5) 豊臣秀吉の側室淀殿 (秀吉正室 北政所ねね(おね)との説もあり) 170cm
 (銘文)天正十七己丑 ア 御上臈 逆修 七月初三日 → 淀君 豊臣秀頼五輪塔 太融寺 高台寺

浅野弾正は、浅野長政(浅野長勝養子)である。 豊臣秀吉の正室高台院も浅野長勝養女であった。→ 高台寺
京都市東山区の阿弥陀ケ峰山頂(標高196m)には、豊臣秀吉の墓所豊国廟がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。




34町石付近 三姉妹母 お市の方(織田信長妹) 関係

織田信長墓所

織田信長墓所は、和歌山県高野山の奥の院にある。
奥の院御廟橋南西にある砂岩製五輪塔の高さは、230cmで、銘文には次のように記されている。

天正十年六月二日
總見寺殿
(梵字ア)贈大相國一品
泰巖大居士
御宿坊悉地院

織田信長(1534-1582)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で亡くなっている。
この五輪塔の形式は江戸時代中期のもので、後世建立されたものと言われている。
当地墓所北東には、織田信長の孫が初代藩主となった上野小幡藩 織田家供養塔がある。
京都市上京区の阿弥陀寺には、織田信長公本廟がある。
後継者の豊臣秀吉が信長の菩提を弔うために建立した大徳寺塔頭 総見院には、信長公一族墓碑がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院前下車、徒歩20分。参拝者用の中の橋駐車場がある。→ 織田信長墓所周辺の石塔




35町石 燈籠堂南付近 お江(家光の母) 関係

春日局供養塔

春日局供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。

春日局(1579-1643)は、徳川三代将軍家光の乳母で、名は斎藤福(稲葉福)、通称お福と呼ばれた。
父は、明智光秀家臣の斎藤利三(としみつ)で,、母は、稲葉一鉄の娘で稲葉あんである。
天正7年(1579)、丹波国春部荘(現兵庫県丹波市春日町)で生まれた。
父の斎藤利三は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、山崎の合戦で敗れ、明智光秀とともに京で首を晒された。
お福は、母方の一族 稲葉重通(しげみち)の養女となり、文禄4年(1595)17歳の時、同養子正成(まさなり)に嫁し、稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利らを産み、将軍家の乳母となるためのち離縁した。
慶長9年(1604)二代将軍徳川秀忠の長男家光出生に際し、京都所司代 板倉勝重の推挙により乳母となった。
乳母に推挙された理由は諸説あるが、春日局の顔にはあばたがあり、当時の天然痘に罹って終生免疫を得ていたため、将軍家の世継ぎを疾病から守るため選ばれたともいわれている。
家光には二歳下の弟 忠長があり、父秀忠と正室お江の方は、忠長を寵愛し、徳川家家臣や有力大名も忠長を次期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況となった。
お福は危機感を強め、慶長15年(1610)伊勢参宮に託して駿府で大御所家康にこの旨を訴えた。
家康は鷹狩と称して江戸に上り、次期将軍は家光と定めた。これは「春日の抜参り」といわれている。
寛永3年(1626)正室お江の方(崇源院)没後は、大奥を統率し、絶大な権勢を振るうとともに、将軍家光に対しても影響力を持った。
寛永6年(1629)紫衣事件で後水尾天皇が幕府の処置に対して譲位の意思を示すさなか、お福は大御所秀忠の内意を受け上洛し、
公卿三条西家の娘として参内する資格を得て後水尾天皇や中宮和子に拝謁し、天盃と「春日局」の称号を賜った。
春日局との縁故で、幕府に登用されたものは多く、夫稲葉正成は大名、子正勝は老中、兄斎藤利宗、三存、娘婿堀田正吉は旗本になっている。
また、正吉の子正盛は、老中を経て家光側近随一の重臣に取り立てられた。
晩年は、湯島に屋敷を賜り、天沢寺(のち麟祥院)を建立し余生を過ごした。
寛永20年9月14日申の上刻(午後3時過ぎ頃)寂(享年65)。法名は麟祥院殿従二位仁淵了義大姉と諡号された。
春日局は次の二首の辞世を残しており、自筆の書付が淀稲葉家文書に伝来している。
  今日までは 乾く間もなく 恨みわび 何死に迷う あけぼのの空
  西に入る月を誘(いざな)い法をへて 今日ぞ家宅を逃れけるかな
墓所は東京都文京区の湯島麟祥院と神奈川県小田原市の紹太寺(稲葉一族墓所)にある。

高野山奥の院にある春日局供養塔は、花崗岩製の五輪塔で、御廟橋と燈籠堂を結ぶ参道東側にある。
五輪塔前に一対の石燈籠と「春日局及佐久間将監墓所」と記した案内柱が建てられている。
木下浩良氏の「戦国武将と高野山奥の院石塔の銘文を読む」によると、地輪に次のように刻されている。
寛永十七年七月十二日
(ア) 麟祥院殿仁淵
義尼大姉
稲葉春日局逆修

寛永17年(1640)に、春日局が生前に逆修供養をして建立したものである。
許可を得て撮影された五輪塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

佐久間将監実勝(1570-1642)は織豊、江戸時代の武士、茶人である。
豊臣秀吉の小姓を経て、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、作事奉行をつとめた。
古田織部に茶道を学び、晩年、京都大徳寺に寸松庵を建てて号とした。
寛永19年10月22日に73歳で死去した。
江戸時代に作られた紀伊國名所図会の奥の院図面では、「イナバ春日」のすぐ北側に「さくま将監」が描かれている。
一方、昭和57年刊行の水原堯榮氏「高野山金石図説」によると、佐久間将監實勝供養塔(高さ七尺五寸)は、御供所西方丘上北向にある。

春日局は金戒光明寺とも縁が深く、寛永5年(1628)2月15日一山供養により、二代将軍秀忠正室お江与の供養塔を建立、同年極楽橋(木造)再建、寛永11年(1634)駿河大納言忠長の供養塔を建立した。
金戒光明寺に春日局供養塔があり、寺の過去帳には、「麟祥院殿月窓崇山大姉」と記されている。


小田原通り お初関係(京極家)

持明院

持明院は、和歌山県高野山往生院谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は延命地蔵菩薩で秘仏とされている。
創建は平安時代末の保安年間(1120-1123)で、高野山検校 持明房真誉が開いたと伝えられている。
真誉は、弘法大師空海が奥の院に入定したときの作法をまとめた「持明院流」の開祖で、覚鑁上人の法兄である。
紀伊続風土記によると、もと南谷宝性院(ほうしょういん)の隣にあったが、元禄年中(1688-1704)の高野聖断により改易された往生院谷十輪院の地を与えられて移転した。
持明院文書には、小坂坊、引導院の名もみられる。
武田家、徳川家、京極家、肥前大村家、常陸土浦の土屋家などを大檀主としている。
寺宝として、国指定重要文化財の絹本著色浅井久政像、同浅井長政像、同浅井長政夫人(お市の方)像がある。
香川県丸亀藩の京極家と縁が深い関係で、山門正面には、四国八十八ヶ所お砂踏み場がある。
なお、当院は教学院、宝生院の名跡を有している。
南海電鉄高野線高野山駅からバスで小田原通下車。





五の室谷 お江(崇源院)関係(徳川家) お江の義父と夫 徳川家霊屋

徳川家霊台

徳川家霊台は、和歌山県高野町にある2棟の霊屋である。
三代将軍家光が、大檀主となり創建されたもので、十数年の歳月をかけ1643年に落成した。
左右同じ二棟の建築物からなり、向かって右が家康霊屋、左が秀忠霊屋である。
建物は、三間四方の一重宝形造で、江戸時代の代表的霊廟建築として重要文化財に指定されている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「波切不動前」下車。




五の室谷 光臺院 お江(崇源院) 関係 (豊臣秀次はお江の夫 豊臣秀勝の兄)

豊臣秀次の墓

豊臣秀次の墓は、和歌山県高野町の光臺院にある。
豊臣秀次(1568-1595)は、文禄4年(1595年)7月13日、金剛峯寺の柳の間で、四人の近習と自刃し、遺骸は高野山に葬られた。
高野春秋編年輯録巻十三によると、山本主殿、山本三十郎、不破萬作、玄隆西堂が自決し、秀次が介錯した。
その後、雀部(ささべ)淡路守重政の介錯で秀次が自裁した。
秀次及び殉死した五人の遺骸は、奥の院に葬られたと記されている。
秀次の首は伏見に運ばれ、秀吉に見せられた。
同年8月2日に京都三条河原で、秀次の妻妾や遺児が豊臣秀吉の命で殺された。
京都市の瑞泉寺には、秀次と処刑された一族の墓所がある。
南海高野線高野山駅からバスで、警察前下車徒歩3分。前日までに光臺院に予約すると墓所を参拝できる。→ 瑞龍寺(村雲御所)


小田原谷 お江関係(徳川家)

蓮花院

蓮花院は、和歌山県高野山の小田原谷にある真言宗の準別格本山である。
本尊は阿弥陀如来である。
寺伝によると、弘法大師が悪魔降伏のために、軍荼利明王の秘法を修し、結界を結んだ時の草庵が寺の起こりと言われる。
また寺名は、弘法大師が修行中に、白蓮の中に瑞光が現れたことから、蓮花院と名付けられたといわれている。
古くは聖方に属し、五之室谷の徳川家霊台の前に位置し、室町時代には光徳院、江戸時代は大徳院と号した。
徳川将軍家の菩提寺として、歴代宗家の位牌と家康、秀忠の尊像が祀られている。
また、水戸黄門で有名な水戸光圀の位牌や家康の念持仏といわれる薬師瑠璃光如来がある。
徳川家との関係は、永享11年(1439年)当院主が、相模の藤沢寺(現在の清浄光寺)に止宿し、家康の祖先松平太郎左衛門親氏入道徳阿弥と師檀契約を結んだことから始まる。
天文4年(1535年)家康の祖父松平清康の遺骨が当院に納められ、光徳院と改号した。
文禄3年(1594年)家康が豊臣秀吉に随従して高野山に参り、光徳院に止宿し、この時に家康から大徳院の院号が与えられた。
寛永年間(1624-44)に大徳院の後山に東照宮(家康)、台徳院殿(秀忠)の御霊屋(徳川家霊台)が建てられて、徳川家の菩提所となった。
明治時代初期に東京に移ったが、その後現在地に移り、蓮花院と称している。
奥の院にある松平秀康及び同母霊屋徳川秀忠夫人崇源院供養塔は、当院が管理している。
南海高野線高野山駅からバスで、千手院橋下車、徒歩3分。




南谷 お江(崇源院)関係(徳川家)  徳川秀忠公二女 珠姫

天徳院

天徳院は、和歌山県高野山の金剛峯寺南にある真言宗の別格本山である。
本尊は、白河天皇第四皇子の覚法法親王も拝んでいたといわれる「山越の阿弥陀如来」である。
開基は寛永5年(1628)に没した前検校覚雄で、もとは西光院(さいこういん)とよばれていた。そのため当院から南側に入る谷を西光院谷と呼ぶ。
元和8年(1622)、加賀百万石前田家が、3代目当主利常(としつね)の夫人 珠姫(たまひめ)(徳川秀忠公二女)の遺骨を収めてから、寺名を珠姫の戒名である天徳院と改めた。
天徳院庭園は、小堀遠州作の池泉回遊式庭園で国指定名勝となっている。
宝来様式と呼ばれる鑑賞様式で、庭の手前が人間の現世の世界、池の部分が仙人の世界、滝を上って奥にある珠姫の墓地の周辺が仏の世界を現わしているといわれる。
千手院谷普門院、蓮華谷宝善院の庭園とともに高野三庭園と呼ばれている。
本堂には、前田家代々の位牌や、赤穂浪士四十七士の位牌が祀られている。
絹本著色理趣経十八会曼荼羅図を蔵し、和歌山県の文化財に指定されている。
南海高野線高野山駅からバスで金剛峯寺前下車、徒歩3分。





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