伏見桃山城 模擬天守

伏見桃山城 模擬天守は、京都市伏見区にある。
昭和39年(1964)に伏見桃山城キャッスルランドの開園に合わせて、伏見城跡北西部長束(なつか)郭に建設された模擬天守である。
伏見城の御花畠山荘の跡に建設されており、5重6階の大天守は50m、3重4階の小天守は30mの高さで、戦国時代から江戸時代にかけて建てられた当時の伏見城とは、直接の関係はない。

伏見城は、戦国時代から江戸時代にかけて、三回建設されている。
最初の城は、天正20年(1592)から着工し、文禄3年(1594)に完成したもので、豊臣秀吉が養子秀次に関白職を譲り隠居城としたものである。
場所は、宇治川に面する南斜面の指月山に築かれたことから、指月城と呼ばれた。指月伏見城跡の遺構が発掘されており、一部が見学できる。

この最初の城は、文禄5年(1596)7月伏見地方を襲った大地震により建造物が倒壊したため、
次の伏見城は場所を木幡山(こばたやま)に移し、慶長2年(1597)には、山頂を本丸とし、西の丸、松の丸、名護屋丸、日下部丸などからなる大型の近世城郭が完成した。
豊臣秀吉は、慶長3年(1598)8月に伏見城で亡くなっている。

秀吉の没後は、徳川家康が入ったが、慶長5年(1600)家康が上杉討伐に東下した留守を西軍に攻められて、二の丸などが炎上し陥落した。
これは関が原の戦いの前哨戦と位置づけられており、東軍守備隊の鳥居元忠らの武将が伏見城内の廊下で自刃し、その兵士らの血で染まった板は、養源院に血天井として残されている。
その後、徳川家康により復興され、家康・秀忠の将軍宣下式はこの三番目の伏見城で行われた。

大坂城落城後、元和5年(1619)に廃城が決定し、元和9年(1623)3代将軍徳川家光の将軍拝任式が行われた後、建造物は社寺や諸大名に下付され、伏見櫓の名を残すこととなった。
寛永2年(1625)には破却が完了している。その後、城跡一帯に桃が植えられたため、伏見桃山と言われた。
当時の本丸の位置には、明治天皇の伏見桃山陵が、また、その東の名護屋丸の跡地には、皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵がそれぞれ築かれている。
JR奈良線桃山駅下車、徒歩20分。



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