駿河大納言 徳川(松平)忠長供養塔は、京都市左京区金戒光明寺の墓地にある。
徳川忠長(1606-1633)は、二代将軍 徳川秀忠の第3子である。幼名は、国松あるいは国千代と呼ばれ、後に駿河大納言と称された。
母は正室お江の方で、三代将軍家光の同母弟である。
家光は乳母の春日局に育てられたが、忠長は正室お江が自ら育てた。
幼少のころの忠長は、兄家光よりも活発で資質も器量も優れているとみられていた。
秀忠夫婦特にお江の方の忠長に対する寵愛は特別なもので、徳川家家臣や有力大名も忠長を次期将軍とみなし始め、世継ぎの序列も逆転するような状況となった。
そのため、春日局が駿府の徳川家康のところに出向き、世継ぎの決まりを直訴した。
家康は鷹狩りと称して江戸城に出向き、家光が将軍家の跡継ぎであると宣言した。
元和6年(1620)9月に竹千代17歳、国千代15歳で元服し、それぞれ家光、忠長と名付けられた。
元和9年(1623)秀忠は家光を連れて上洛し、将軍職を家光に譲った。
翌年忠長は、将軍家連枝(れんし)として、甲斐、駿河、遠江55万石を与えられ、従二位大納言となった。
しかし、忠長は将軍の弟として更に多くの禄高を望み、父秀忠に百万石もしくは大坂城を賜りたいと懇願したが、聞き届けられなかった。
忠長は、徐々に傲慢な行いが多くなり、寛永3年(1626)に母お江の方が亡くなるとますます乱れて、寛永8年(1631)幕府から甲府に蟄居せよとの命令が下された。
忠長は、金地院崇伝、南光坊天海を通じて赦免を請うたが許されず、寛永9年(1632)に父秀忠没後、領地を没収され上州(群馬県)高崎の安藤右京亮重長に預けられ、寛永10年(1633)12月6日自刃した。享年28。
戒名は、峯厳院殿前亜相晴徹暁雲大居士で、墓所は高崎の大信寺にある。
春日局はこの一件に関して責任の一端があるとして、当地にお江の供養塔を建立したのを機会に、忠長の供養塔を建立した。
駿河大納言 忠長は、母お江の一周忌に、高野山奥の院に崇源院供養塔(五輪塔)を建立している。
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