信州高遠鳥居家供養塔

信州高遠鳥居家供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石南にある。
鳥居の南側に、五輪塔が東西方向に一列に並んでおり、東から順に次の藩主等の供養塔がある。

 藩主名等  没年等   法名  備考
 高遠藩初代藩主 鳥居忠春  寛文3年(1663)  本光院殿  
 山形藩2代藩主  鳥居忠恒  寛永13年(1636)  孝徳寺殿  
 徳川家康重臣   鳥居元忠  慶長5年(1600)  龍見院殿  
 山形藩初代藩主 鳥居忠政  寛永5年(1628)建立  俊嶽院殿  
 鳥居忠政娘     松月院  慶安2年(1649)  松月院殿  

鳥居元忠(1639-1600)は、三河国渡河内で鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。
姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどで功をたて、天正18年(1590)徳川家康の関東入国にあたり、下総矢作(やはぎ)城主(4万石)となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前、徳川家康の命により、伏見城の総大将として1800人の家臣とともに残った。
そのため、伏見城は同年7月19日から始まる西軍4万の総攻撃を受け、8月1日に落城し、元忠も自刃した。
墓所は、京都市左京区の知恩寺にある。また、養源院などには、元忠自刃の際の血のついた床板が、「血天井」として残されている。

鳥居元忠の嫡子 鳥居忠政は、出羽山形に24万石を有する大名となったが、元忠の孫 鳥居忠恒で無嗣断絶となった。
しかし、元忠の功績に鑑みた幕府の計らいにより、忠恒の弟 鳥居忠春が信濃高遠に領地を与えられ、改めて大名となった。
鳥居家はその後改易を経て、下野壬生藩で明治維新を迎えている。



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