源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)

源(徳川)秀忠公御台所六角宝塔(崇源院殿墓)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院21町石の南西の参道から約20m入ったところにあり、持明院墓地の六角宝塔前には、丸亀京極家墓所の案内標柱が建てられている。
宝永4年(1707)「奥院絵図」などには、「源秀忠公御台所」と記されており、「高野山のしをり」などには、「崇源院殿墓」と書かれている。
徳川幕府二代将軍の徳川秀忠夫人 お江(1573-1626)の供養塔で、姉のお初が建立した。→ 高野山の浅井三姉妹ゆかりの地
お初は、浅井長政の次女で、京極高次の妻である。
京極高次の嫡男 京極忠高は、嗣子がなく、死後に領地は没収となったが、のちに甥の京極高和に播磨竜野6万石が与えられた。
京極高和は、万治元年(1658)には、讃岐国丸亀藩(6万石余)に転封となっている。

寛永3年(1626)お初(京極常高院)が、妹の崇源院の霊屋を建立後、万治2年(1659)の三十三回忌に4代将軍家綱公が費用を出して六角宝塔に建て替えたものである。
日野西眞定氏の「高野山民俗誌[奥の院編]」によると、六角宝塔各面に次の銘文が刻されている。

崇源院源夫人昌誉大姉尊
右 最初者、御霊屋為りと雖も、而るに、三十三回之年序を歴し、漸く破壊に及ぶ。
故に今、征夷大将軍 家綱公之釣令に依りて、御宝塔に再興する者也
  御宿坊 小坂坊祐遍
  萬治二巳亥年 九月十五日

宝塔内の無縫塔には、次のように刻されている。
   寛永三年丙寅年
  奉為崇源院源夫人昌誉大姉
   九月十五日

高野山奥の院30町石北西には、徳川秀忠の次男駿河大納言忠長が、母の追善供養のため、寛永4年(1627年)に建立した崇源院供養塔(一番石)がある。
京都市左京区の金戒光明寺には、春日局が建立したお江供養塔がある。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩10分。国道371号線沿いに路側駐車帯がある。



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