総見院

総見院は、京都市北区にある大徳寺の塔頭である。
天正10年(1582)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の菩提を弔うため建設に着手し、天正11年に創建された。
開山は玉甫紹琮、古渓宗陳を勧請開山とする。
本能寺の変の後、主の仇である明智光秀を討った秀吉は、織田勢力の実質的な相続者となった。
そのことを天下に認知させるため、千利休の勧めにより、大徳寺で信長の葬儀を自ら主催することとした。
信長の葬儀は、当地で盛大に行われ、当時「大徳寺の焼香場」と、はなやかに呼ばれたという。(司馬遼太郎「大徳寺散歩」)
またこの葬儀の場で、秀吉が信忠の遺児 三法師(織田秀信)を抱き、後継者としてふるまった話はよく知られている。
そして、塔頭の総見院(信長の法名)をたて、天正13年3月8日に信長追討大茶会を催している。
明治期の廃仏毀釈でかつての堂宇は失われたが、大正年間に再興されている。

本堂に安置されている織田信長坐像は、信長の一周忌法要に合わせて香木(沈香(じんこう))で作られたものである。
運慶、湛慶の流れを汲む仏師 康清(こうせい)の作とされ、高さ115cmの眼光鋭い衣冠束帯の姿で、国の重要文化財に指定されている。
この信長像は同じものを二体彫ったうちの一体で、もう一体は信長の棺に入れられ荼毘に付されたといわれる。
明治維新後、廃仏毀釈を避けるため大徳寺本坊へ移されていたが、昭和36年(1961)織田信長380年忌に際して総見院に戻された。

境内には、大正時代初期に山口玄洞(げんどう)が建立した「寿安席(じゅあんせき)」、表千家の即中斎(そくちゅうさい)好みの「香雲軒(こううんけん)」、
而妙斎(じみょうさい)揮毫の扁額を掲げた「龐庵(ほうあん)」、と名付けられた趣の異なる三つの茶室が建っている。
表門と周囲の土塀は創建当時のもので、塀の中に塀があるという珍しい二重構造から「親子塀」と呼ばれる。
鐘楼には、堀秀政が信長の菩提のために寄進した鐘がある。
本堂横には加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を井筒とした「掘り抜き井戸」がある。

本堂西には、秀吉が千利休から譲り受けたという樹齢400年の「胡蝶侘助椿(こちょうわびすけつばき)」がある。
ワビスケは、花が小さく早春から咲き、茶花としてもよく用いられるツバキの園芸品種で、
総見院のワビスケは、この品種の現存するもっとも古い個体で、昭和58年(1983)京都市指定天然記念物に指定された。

本堂西側の墓所奥には、信長公一族墓碑がある。
正面に向かって左から、秀雄(信雄嫡男)、信雄(信長二男)、織田信長、信忠(同嫡男)、秀勝(同四男)、信高(同七男)、信好(同十男)の墓碑が並んでおり、東側奥には比叡山が望める。
信長公一族墓碑の左奥には、正室 帰蝶(濃姫)、側室お鍋の方の墓石がある。



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