徳勝寺、浅井三代墓は、滋賀県長浜市にある。
興福山徳勝寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来である。
寺伝によると、応永年間(1394-1428)に通峰真宗和尚(つうほうしんしゅうおしょう)を開基として、上山田村(長浜市湖北町上山田)に創立されたといわれ、初めは医王寺と号した。
永正15年(1518)浅井亮政の小谷城築城に伴い、龍山株源を中興として山麓の清水谷に移し、浅井氏の菩提寺とした。
姉川の合戦の後、天正2年(1574)に織田信長によって浅井氏が滅亡し、かわって湖北を掌中におさめた豊臣秀吉がその居城を小谷から長浜に移した。
その際、文禄4年(1595)当寺も長浜城内に移され、浅井亮政の法号(徳勝寺殿)に因んで「徳勝寺」と改称された。
慶長11年(1606)、内藤信成が長浜城主として封じられた際に一旦田町(現朝日町内)に移築されたが、寛文12年(1672)彦根藩主井伊直孝により現在地に移され、寺観も整備された。
元和3年(1617)2代将軍徳川秀忠は寺領33石余を安堵し、寛文12年(1672)浅井長政百回忌に際し、幕府は祭祀料を施入している。
幕府や井伊家などの保護は、徳川秀忠夫人が、浅井長政三女のお江(崇源院)であったためである。
徳勝寺には、寺宝として、天正4年羽柴秀吉寺領寄進状、羽柴秀勝寺領寄進状が伝わっており、いずれも長浜市の文化財に指定されている。
羽柴秀勝寺領寄進状は、当時八世住職 源秀(げんしゅう)和尚が、秀吉の養子 お次丸秀勝の学問の師としてあおがれていたので、寺領が寄進されたといわれている。
当地の長政墓には、「養源院」と記された木製卒塔婆が建てられている。
文禄3年(1954)豊臣秀吉側室となっていた浅井長政の長女 淀殿は、亡父浅井長政(1545-1573)の菩提を弔うため、二十一回忌に京都に養源院を建立している。
養源院の開山は、比叡山の高僧であった長政の従弟 成伯法印(浅井石見守亮親の二男)で、寺名は長政の法名(養源院天英宗清)をとって、養源院とした。
その後火災で焼失したため、元和7年(1621)淀殿の妹(浅井長政の三女)で徳川秀忠の正室 お江(崇源院)が、伏見城の遺構を用いて養源院を再興した。
また、和歌山県高野山奥の院には、浅井長政の供養塔が建立されている。
京極高次に嫁いだ長政の次女 お初(常高院)が建立したといわれている。→ 和歌山県高野山 浅井三姉妹ゆかりの地
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