高野山奥の院 土屋家石塔


No.1上総久留里藩 土屋家供養塔

上総久留里藩 土屋家供養塔は、和歌山県高野山奥の院21町石南東にある。
崇源院殿(江姫)六角宝塔の北東に位置している。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内に中型五輪塔6基、櫛形墓標2基、圭頭墓標1基、方柱墓標4基が並んでいる。
上総久留里藩の初代藩主 土屋忠直供養塔が下の写真の通り2基建立されている。

慶長17年の供養塔地輪には、次のように刻されている。
    慶長十七年
(梵字)爲琴窓静閑
    四月九日

延宝7年の供養塔地輪には、次のように刻されている。
上総國久留里之領主
土屋民部少輔
(梵字)爲圓覚寺殿
    琴窓浄閑大居士
施主土屋主税三直□□□□
旹延寶七己未天七□□

慶長17年の忠直塔に隣接して三代藩主 土屋直樹供養塔があり、地輪に次のように刻されている。
土屋主税逵直爲□□
(梵字)定林院殿
    不岩宗徹居士
延寶九辛酉天六月□□

土屋忠直(1578-1612)は、土屋昌恒(まさつね)の長男として生まれ、天正16年徳川家康の側室 阿茶局(あちゃのつぼね)の養子となった。
徳川秀忠の近習をつとめ、慶長7年上総久留里藩土屋家初代藩主(2万石)となった。
慶長17年4月9日に35歳で死去した。
2代藩主 利直、3代藩主 直樹と続いたが、延宝7年(1679)3代藩主直樹が狂気を理由に改易された。
土屋直樹(1634-1681)は、延宝9年6月30日に48歳で死去した。法名は、宗哲であるが、久留里城址資料館によると、定林院殿不岩宗哲(徹)大居士との法名も残されている。
久留里藩土屋家は、大名の地位を失ったが、直樹嫡男の逵直が3000石の旗本として存続した。



No.2常陸土浦藩 土屋家供養塔(初代 数直他)

常陸土浦藩 土屋家供養塔(初代 数直他)は、和歌山県高野山奥の院21町石東にある。
日向高鍋藩秋月家供養塔崇源院殿(江姫)六角宝塔の間に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、中型五輪塔7基が並んでおり、次の供養塔が確認できる。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 常陸土浦藩
二代藩主土屋政直の三男
土屋 定直
宝永2年
(1705)
大慈院殿英叟
義雄(勇)居士
 
 ②  老中
常陸土浦藩 二代藩主
土屋 政直 
享保7年
(1722) 
徳相院殿
俊翁道耆大居士 
 
 ③  常陸土浦藩
二代藩主土屋政直の次男
土屋 昭直(てるなお) 
元禄3年
(1690) 
崇峯院殿中巖
玄庸 
 
 ④ (恵明院殿) 延寶7年
(1679)
恵明院殿  
 ⑤ 常陸土浦藩 八代藩主
土屋 寛直
文化7年
(1810)
祥善院殿前土浦城主
徳倫元良大居士
幕府への届け出と
供養塔建立年は、
文化8年 
 ⑥ 老中
常陸土浦藩 初代藩主
土屋 数直
延寶7年
(1679)
融相院殿
寛翁道智大居士
 ⑦ 土屋数直正室
土屋政直母
水野忠貞娘
貞享3年
(1686)
雲松院殿
法性恙宣尼大居士
 

常陸国土浦藩主土屋氏の家祖は、上総国久留里藩主土屋忠直の次男数直で、宗家は三代で廃絶となったが、分家の土浦藩主土屋家は、明治維新まで存続している。
当地墓所の30メートル南西には、常陸土浦藩 土屋家供養塔(3代陳直他)がある。




No.3常陸土浦藩 土屋家供養塔(3代陳直他)

常陸土浦藩 土屋家供養塔(3代陳直他)は、和歌山県高野山奥の院21町石南東にある。
崇源院殿(江姫)六角宝塔の南西にあり、京極忠高の妻 初姫供養塔の南東に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、墓域内には下記の中型五輪塔6基がある。

 写真番号  供養者名  没年  法名  備考
 ① 常陸土浦藩 7代藩主
土屋 英直
享和3年
(1803)
英哲院殿
助山義功大居士
 
 ② 常陸土浦藩 4代藩主
土屋 篤直
安永5年
(1776)
本覺院殿
巌性遵義大居士
水輪以上倒壊
 ③ 常陸土浦藩 5代藩主
土屋 寿直(ひさなお) 
安永6年
(1777) 
俊良院殿
彰善惟顕大居士 
 
 ④ 常陸土浦藩 9代藩主
土屋 彦直(よしなお)
弘化4年
(1848)
賢相院殿
道誉洽(拾)山松翁大居士
 
 ⑤ 常陸土浦藩 3代藩主
土屋 陳直(のぶなお)
享保19年
(1734)
霊鷲院殿
顕翁瑞英大居士
水輪以上倒壊
 ⑥ 常陸土浦藩 6代藩主
土屋 泰直
寛政2年
(1790)
純徳院殿
善應義信大居士
 

当地墓所の30m北東には、常陸土浦藩 土屋家供養塔(初代 数直他)がある。






(出典:工藤寛正氏編「江戸時代 全大名家事典」)



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