淀城跡 與杼神社

淀城跡、與杼(よど)神社は、京都市伏見区淀本町にある。
淀は、古くは與杼、與渡、澱などと記され、西から順に、桂川、宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる地域である。
古代から淀の津と呼ばれ、水路と陸路の交差点として栄えてきた。
室町時代には、当地から約500m北にある納所の妙教寺付近に、淀古城が築かれ、豊臣秀吉は、淀殿(茶々)の産所として城を改修したが、鶴松が病死したため廃城とした。
元和5年(1619)徳川幕府二代将軍 徳川秀忠は、伏見城の廃城に伴い、松平定綱に水陸の要衝である淀の地に築城を命じた。
松平定綱が築城した地は、納所の旧淀城跡ではなく、納所の南を流れる宇治川対岸の淀島で、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に竣工した。
寛永3年、徳川秀忠、家光親子が上洛の際には、この城を宿所としている。

江戸時代の淀城は、桂川を堀として取り込み、3重の濠をめぐらした城で、本丸、二の丸、三の丸、西の丸、東曲輪に櫓38,城門20及び水門を設けて威容を誇った。
水を城内に汲み上げるため、直径8mの大水車が2ヶ所設けられた。
淀城とその城下町の様子は、延享5年(1748)の朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)一行が淀で船を降り、陸路京都へ向かう様相を写した「朝鮮聘礼使(へいれいし)淀城着来図」に詳しく描かれている。

寛永10年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後諸大名が次々と入城したが、享保8年(1723)春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、幕末まで百数十年間、稲葉氏が城主をつとめた。
幕末の動乱で、12代藩主稲葉正邦が老中職をつとめており、淀藩は微妙な立場にいたが、鳥羽伏見の戦いでは、敗れて淀城に入ろうとする幕府軍に対し、藩兵は門を閉ざして入城させず、中立の立場を貫いた。

淀城跡地は、昭和43年(1968)に淀城跡公園となっているほか、城跡には、與杼神社、稲葉神社がある。
與杼神社は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは淀姫社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。
社伝によると、応和年間(961-964)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まる。
当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。拝殿は慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財となっている。
京阪本線淀駅下車、徒歩5分。



TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)