逆櫓の松跡

逆櫓の松跡は、大阪市福島区の関西電力病院北側にある史跡である。
現地の案内板には、次のように記されている。
逆櫓(さかろ)の松跡
 「平家物語」の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で協議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした、折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
                             大阪市教育委員会

人形浄瑠璃 文楽の「ひらかな盛衰記」は、「源平盛衰記」を平仮名にやさしく絵解きしたという意味で付けられた題名であるが、
角書(つのがき)(本名題の上に内容を示すタイトルを二行に割って書いてあるもの)には、「逆櫓松(さかろまつ)」「矢箙梅(えびらのうめ)」と書かれている。→ 生田神社 箙(えびら)
ひらかな盛衰記の「松右衛門内から 逆櫓の段」では、大きな松の前で立ち回りが演じられて次のように語られる。
涙に咽ぶ腰折松 余所の千歳は知らねども 我が身に辛き有為無情 老いは留まり若きは逝く
世は逆様の逆櫓の松と 朽ちぬその名を福島に 枝葉を今に残しける



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