司馬遼太郎文学碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
2016年の高野山開創千二百年記念に向け、平成20年(2008)9月に碑が建立された。
碑文は、司馬遼太郎の著作「高野山管見」(「歴史の舞台 文明のさまざま」)の冒頭部分が、次の通り刻されている。
高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
山上は、ふしぎなほどに平坦である。
そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。
枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。
さらには林間に苔むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時(しいじ)、勤仕されている。
その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
大門のむこうは、天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空(そら)がひどく大きい。
大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。
南海高野線高野山駅からバスで奥の院口下車、徒歩5分。