志摩鳥羽藩 内藤家供養塔は、和歌山県高野山奥の院31町石南東にある。
出羽庄内藩主酒井忠当供養塔の東側、出羽庄内藩主酒井忠義供養塔の北側に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓域内には大型五輪塔3基、櫛形墓標2基、屋根付角柱墓標1基、角柱墓標2基がある。
各石塔は、次のとおりである。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 志摩国鳥羽藩 第2代藩主 内藤忠政 |
寛文13年 (1673) |
智洞院殿 性譽覺本大禪定門 |
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② | 志摩国鳥羽藩 初代藩主 内藤忠重 |
承応2年 (1653) |
善龍院殿前志刕 空安了源大禪定 |
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③ | 志摩国鳥羽藩 第3代藩主 内藤忠勝 |
延宝8年 (1680) |
浄邦院殿 行譽直心大禪定門 |
第2代藩主 内藤忠政の次男 芝増上寺の刃傷事件で切腹 |
④ | 鳥羽藩2代藩主 内藤忠政の長男 内藤忠次 |
宝永元年 (1704) |
涼法院殿 覺翁圓心居士 |
寛文11年(1671) 病気により廃嫡 |
⑤ | 旗本 内藤弾正重隆 | 享保16年 (1731) |
覺峰院殿 正譽秋光月閑大禪定門 |
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⑥ | 旗本 内藤圖書忠種 | 享保3年 (1718) |
眞性院殿 高譽圓量大禪定門 |
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⑦ | (延宝8年 板碑) | 内藤忠勝切腹の年に建立された板碑 碑文に「家榮三世止行譽」とある |
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⑧ | (翆松院殿) | 寛延3年 (1750) |
翆松院殿 泰岩貞粱童子 |
施主 内藤重治良家中 岡本妻女立 |
内藤家は、徳川家康に仕えた一族で、その功績により、江戸幕府成立後に数家に分かれて隆盛した。
志摩国鳥羽藩主内藤氏の家祖は、宗家清長の弟忠郷(たださと)の子 仁兵衛忠政の次男 内藤忠重で、日向国延岡藩主内藤家の支流である。
初代内藤忠重は、徳川秀忠に仕え、寛永10年3月に志摩国鳥羽3万5千石に入封した。
2代内藤忠政は、忠重の長男で、承応2年(1653)家督を相続し、57歳で没した。
3代内藤忠勝は、忠政の次男で、延宝元年(1673)に家督を相続した。
延宝8年(1680)4代将軍徳川家綱が5月8日に病没し、6月26日に芝増上寺で法要が執行された時、丹波国宮津藩主 永井尚長を殺害するという刃傷事件を起こし、翌6月27日芝青松寺で切腹したため、鳥羽内藤家は三代で廃絶となった。
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