多田神社は、兵庫県川西市多田院多田所町にある。
祭神は、源満仲、頼光(らいこう)、頼義(よりよし)、義家(よしいえ)である。
正面石段の右には多田神社、左には史跡多田院の石碑がある。
明治時代になるまでは、多田院と呼ばれ、多田院鷹尾山法華三昧堂という寺院であった。
天禄元年(970)源満仲は、嫡男頼光、二男頼親、四男頼信らとともに七堂伽藍を建立して多田院とし、比叡山の慈恵(良源)を導師として堂塔供養を行った。
その後(多田)満仲は出家し、長徳3年(997)86歳で死去して、多田院に廟所が築かれた。
清和源氏、源満仲の廟所として、鎌倉、室町幕府の保護のもと発展した。
拝殿西側には、多田院鳴動の説明板がある。
源満仲は、次のように遺誡を残したという。
「吾没後神(たましい)を此の廟窟に留め置き、弓箭の家を護るべし。
しかのみならず、当院の鳴動を以て、兼ねて応に四海の安危を知見すべし云々」
本殿裏には源満仲、頼光の廟所があり、後世歴代足利将軍の分骨も収められている。
この廟所が音を発して揺れ動くことが、史上知られている「多田院鳴動」である。
当社縁起によれば、源頼朝敵追討時に端を発し、現存史料上は17回の鳴動が知られており、鳴動時に幕府に注進している。
応永22年(1415)の文書では、「鳴動の件、佳例たる上はいよいよ祈祷精誠をぬきんずべしの状、件の如し」とあり、
他所の鳴動と異なり、佳例、吉例として捉えられ、神馬宝剣等を奉納し、祈願祈祷を厳修した。
戦国時代の動乱で荒廃したが、徳川幕府四代将軍家綱の時に再建され、現存の多くの建物は当時に建てられた。
昭和26年(1951)神域一帯が国の史跡に指定され、本殿、拝殿、随神門と多田神社文書が国の重要文化財となっている。
能勢電鉄多田駅下車、徒歩15分。参拝者用の有料駐車場がある。→ 久々知須佐男神社