融神社は、滋賀県大津市伊香立南庄町(いかだちみなみしょうちょう)にある。
祭神は、嵯峨天皇の第12皇子 源融(みなもととおる)公である。
大原全子(源融公の母親)と大山咋(おおやまくい)日の神を配祀している。
当地は、融公の荘園で、現在の社地は融公が、宇多天皇の寛平年間に南庄村牟禮の岡山に閑居された旧跡で、後世のために鏡一面を山上に埋めたという。
朱雀天皇の天慶8年に伊香立の庄の管領平郡三河公懐昌が土中からその神鏡を掘り出し、その旧地に祠を立て鏡一面を御神璽として、融公を祀ったのが当社の創始である。
寛和2年に、花山法皇の近江巡幸の折に社殿を造営され、正一位融大明神と嵩称された。
一条天皇の永延2年に南庄の水田百町歩を神領とされたが、鎌倉時代以後、次第に衰微し遂に廃絶となり、その後、南庄、谷口、家田三村の産土の神となった。
元亀2年に織田信長の比叡山焼き討ちに遭い、社殿その他を焼失した。
当時の神職山本若狭が神璽を奉持して避難したことで守られ、天正7年に社殿が再興されて神璽は奉還された。
寛政8年(1796)社殿火災で勅書、神宝などを焼失したが、寛政9年(1797)に社殿及び末社などが再造営され現在に至っている。
嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは源融公の別荘でもあった。
源融公(河原左大臣)は、小倉百人一首第14番の次の和歌の詠み人として知られている。
みちのくの しのぶもちずり たれゆに みだれそめにし われならなくに
(意味)
陸奥(みちのく)の(福島県)信夫(しのぶ)地方から産出されるもぢずり(乱れ模様の摺り衣)の乱れ模様のように
他の誰のせいで乱れはじめてしまったのか、私のせいではないのに---。ほかならぬあなたのせいなのですよ。
紫式部は、源融公をモデルとして、光源氏の源氏物語を書いたとも言われている。→ 源融 河原院跡
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