土御門第跡

土御門第跡は、京都市の京都御苑内にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
  土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。
道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。

紫式部日記で描かれる土御門第と源氏物語

紫式部日記の寛弘五年(1008年)霜月(十一月)一日の条。
一条天皇の中宮彰子が出産した第二皇子敦成親王の五十日の祝いが藤原道長の土御門邸で催された。
祝宴もたけなわとなり、許されて中宮の前に参上した公卿たちが女房たちにたわむれかかる。
左衛門の督すなわち藤原公任もふざけて
「このあたりに若紫はおられますか
(あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ)」
と呼びかける。
それを聞いた紫式部は
「源氏ににているような人もお見えにならないのに、ましてあの紫の上がどうしてここにいらっしゃるのだろう
(源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かのうへは、まいていかでものしたまはむ)」
と心に思う。
(「源氏物語千年紀展」紫式部日記絵巻の解説 参照)
この紫式部日記の記述が、源氏物語の成立に関する第一次資料として認められている。
→ 紫式部ゆかりの地

わが世の望月の歌について 

上記案内板にある道長のわが世の望月の歌は、寛仁2年(1018)10月16日、道長と倫子の娘 威子が後一条天皇の中宮となった日に詠まれた。
山本淳子氏は、「道長ものがたりーわが世の望月とは何だったのか」で、当日の様子について概略次のように記している。
   当日の子細は、道長の「御堂関白記」より(藤原)実資の日記「小右記」に詳しい。
  道長が和歌を詠んだのは、内裏の紫宸殿で立后の儀式が行われた後、場を道長の土御門殿に移しての宴(「穏座(おんのざ/おんざ)」)でのことだった。
  前々年七月の火災で灰燼に帰した土御門殿はこの六月に新造され、前より高く聳える屋根など、全て道長の指示通りに輝かしく造り替えられていた。
   宴がやがて寛いだ二次会になると、音楽が奏でられる中、道長は大納言の実資に戯れるように言った。「我が子に盃を勧めてくれんか?」(中略)
  しばらくして、道長は次のように言った。
<以下は、「小右記」>
  「和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし」てへり。 答へて云はく、「何ぞ和し奉らざるや」。
  又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構(しゅくこう)に非ず」てへり。
  此の世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
<大意>
  太閤(道長)が下官を呼んで云ったことには、「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。
  答えて云ったことには「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。また、(道長が)云ったことには、「誇っている歌である。但し予め用意していたものではない。」ということだ。
  「今夜のこの世を、私は最高の時だと思う。(16日で)空の月は欠けているが、私の望月は欠けることもないと思うので。」
  私(実資)が申して云ったことには、「御歌は優美です。醜答(しゅうとう)する方策もありません。満座は、ただこの歌を誦すべきでしょう。元稹(げんしん)の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました。」と。→ 京都新聞 文遊回廊
  諸卿は私の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。(後略)
     (倉本一宏氏編「現代語訳小右記」 参照)

藤原道長の「御堂関白記」は、10月16日の様子について、大変詳細に記しているが、わが世の望月の歌に関しては、次のように和歌とだけ記し、どのような歌であったかは記されていない。
  数献の宴飲の後、禄を下賜した。大褂(おおうちぎ)一重であった。ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々はこの和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った。
     (倉本一宏氏「藤原道長「御堂関白記」(下)」 参照)

→ 藤原道長ゆかりの地



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