藤原道長ゆかりの地
法成寺跡(ほうじょうじあと)は、京都市上京区荒神町にある。
寛仁3年(1019)、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、
鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に落慶供養、以降10年ほどかけて金堂、薬師堂、釈迦堂、五重塔など壮麗無比な諸堂を建立した。
平安京外の東一帯に位置することから、「北東院」とも呼ばれ、鴨川から望むその姿は宇治川から見える平等院のモデルともいわれている。
度重なる火災や地震に遭い、そのつど再建されてきたが、14世紀前半にはかなりすたれ、残っていた無量寿院(阿弥陀堂)の炎上をもって消滅した。
当地には、寺跡を示す「従是東北法成寺址」の石碑がある。→ 誠心院
発掘調査では法成寺跡の遺構は見つかっていないが、鴨沂(おうき)高校や京都御苑内から平安時代中期の緑釉瓦(りょくゆうがわら)が出土している。
「源氏物語ゆかりの地」として、平成20年(2008)3月に京都市が案内板を設置している。
→ 浄瑠璃寺
真正極楽寺(真如堂)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗の寺院である。
正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)と称し、真如堂は大本堂をさし、寺の俗称となっている。山号は鈴声山(れいしょうざん)。
永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧 戒算(かいさん)上人が、延暦寺の常行堂(じょうぎょうどう)にあった阿弥陀如来像を、東三条院藤原詮子(せんし)(一条天皇の母、藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。
当初、この場所の東北に位置する元真如堂(換骨堂)の地にあったが、応仁の乱(1467-77)で東軍の陣となって、諸堂宇を焼失した。
以降、近江国坂本(滋賀県大津市)などを転々とし、元禄6年(1693)に現在地で再建が開始された。
本堂(重要文化財)は、江戸時代享保2年(1717)の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り、内部には本尊の阿弥陀如来立像が祀られている。
本尊(重要文化財)は、「うなずきの弥陀(頭振(かぶりふ)りの阿弥陀)」とも呼ばれ、毎年11月15日に開帳される。
信濃 善光寺の阿弥陀如来、京都嵯峨 清凉寺の釈迦如来、真如堂の阿弥陀如来は、「日本三如来」と呼ばれている。
また、11月5日から10日10夜にわたって行われる「お十夜(じゅうや)」は、盛大さで全国に知られる。
寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経六巻(国宝)をはじめ、応仁の乱などを描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)、毎年3月に公開される大涅槃図など、多数を有している。
境内の墓地には、歌人冷泉為村、画家海北友松、武将斎藤利三、俳人向井去来、豪商三井一族など著名人の墓が多くある。
墓地入口には、春日局(1579-1643)が、父 齋藤内蔵介利三(1534-1582)の菩提を弔うために植えた「たてかわ桜」がある。
本堂前に、向井去来の句碑 涼しさの野山に満つる念仏かな が建てられている。
秋には、東山を借景にした「涅槃の庭」や三重塔、梵鐘に色づいたもみじが映え、紅葉の名所としても有名である。
本堂前には、「京都・映画誕生の碑」がある。
JR京都駅他各ターミナルからバスで錦林車庫前下車、徒歩8分。
朝日山平等院は、京都府宇治市にある単立寺院である。
宇治は、源氏物語の宇治十帖で知られる山紫水明の地で、9世紀に左大臣源融(とおる)が別業(別荘)宇治院を建立した。
末法の初年とされた永承7年(1052年)に、関白藤原頼通が父藤原道長から受け継いだ宇治院を寺に改め、平等院が創建された。
翌年の天喜元年(1053年)に阿弥陀堂(国宝)が建立され、中堂の甍に一対の棟飾り金銅鳳凰が置かれたことから、鳳凰堂と呼ばれている。
鳳凰堂は、経典に描かれる極楽浄土の宮殿をモデルにしたもので、中堂と左右の翼廊、背後の尾廊の4棟の建物からなる。
中堂内には、平安時代を代表する仏師定朝作の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)が安置され、壁面には、52体の木造雲中供養菩薩像(国宝)が配置されている。
天井は、夜光貝の螺鈿が使われた宝相華(ほうそうげ)透彫りの木造天蓋(国宝)が飾られ、四周の扉と仏後壁には九品来迎を描いた壁扉画(国宝)が飾られて、平安時代の浄土教美術の頂点を見ることが出来る。
庭園は、浄土式の借景庭園として史跡名勝に指定され、阿字池、洲浜や平橋、反橋などが整備されている。
平成6年(1994年)には、「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録された。
平成13年(2001年)には境内のミュージアム鳳翔館が開館し、天下の三名鐘の梵鐘や雲中供養菩薩などの宝物を間近に観賞できる。
平等院境内の片隅には、源頼政自刃の場所「扇の芝」が大切に保存されており、命日の5月26日には、墓所である平等院塔頭の最勝院で法要が営まれる。
JR奈良線宇治駅、京阪宇治線宇治駅下車、徒歩10分。
一乗寺下り松は、京都市左京区一乗寺花ノ木町にある。
当地は、近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で、
この松は古くから旅人の目印として植え継がれ、現在の松は五代目にあたる。
江戸時代はじめ、この地で、剣客 宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説が有名で、当地から東へ約300mのところにある八大神社の境内に決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。
宮本武蔵は決闘に向かう途中、八大神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き、寸前で取りやめたとの話が伝えられている。
平安中期からこの辺りにあった園城寺系の一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となっている。
上東門院彰子(じょとうもんいんしょうし)(一条天皇中宮で藤原道長の娘)が、康平6年(1063)同寺を供養したことが「百錬抄」に残されている。
保安2年(1121)に延暦寺衆徒の焼き討ちに遭い、再興されたものの、南北朝の動乱で焼亡したという。
奥にある記念碑は、大正10年(1921)に広島県呉の剣士 堀正平氏とその妻により建立されたものである。
京都市バス一乗寺下り松町下車、徒歩5分。
誠心院(せいしんいん、じょうしんいん)は、京都市中京区にある真言宗泉涌寺派の寺院で、通称和泉式部の名で知られている。
華嶽山東北寺(かがくさんとうぼくじ)誠心院と号する。
寺伝によれば、関白藤原道長が、むすめの上東門院(藤原彰子(しょうじ))に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが、当寺の起こりと言われている。
当初、御所の東側にあったが、その後一条小川(上京区)に再建され、さらに天正年間(1573-91)この地に移された。
和泉式部は、平安時代の代表的な女流歌人で、才色兼備で知られ、代々の勅撰集に収められている和歌は247首に及んでいる。
本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長の像を安置している。
境内には、和泉式部の墓と伝える宝篋印塔及び式部の歌碑が建てられている。
この宝篋印塔は、謡曲「誓願寺」で次のように謡われている。
「わらわがすみかも他所ならず。あの石塔こそすみかにてさむらへ。
不思議やなあの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きつるに そもすみかとは不審なり。」
また、傍らの梅の木は、和泉式部が生前好んだ「軒端(のきば)の梅」に因んで、後世植えられたものである。→ 東北院 軒端梅
毎年、和泉式部の命日にあたる3月21日には本堂に於いて午前11時から式部所縁の謡曲「東北」「誓願寺」の奉納がある。
午後1時からは、永代供養総供養が、午後2時からは「開山和泉式部忌」が行われる。
本堂では、寺宝の特別公開が行われる。
天台圓浄宗 大本山 廬山寺は、京都市上京区にある。
天慶元年(938)、比叡山第十八世座主 元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)(慈恵大師)が京都の北、船岡山南麓に開いた與願金剛院(よがんこんごういん)に始まる。
寛元3年(1245)法然上人に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ケ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人によって廬山寺が與願金剛院に統合された。
この時から寺名を廬山天台講寺と改め、圓、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。
その後、応仁の乱や家事により類焼し、当時の再建勧進には、
「此の地は洛中の叡山、日本の虎渓(中国の江西省の廬山にあった谷の名称)なり、誰かこれを帰敬せざらん」
と記されている。
元亀3年(1571)、織田信長の比叡山焼き討ちにも遭遇するが、正親町天皇の勅命を受けて、現在地(紫式部邸宅址)に移転した。
現在の本堂は、宝永5年(1708)、天明8年(1788)に、世にいう「宝永の大火」、「天明の大火」で相ついで焼失した後、
寛政6年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の下賜をもって改装されたものである。
また当寺は、明治時代初期の廃仏毀釈により廃された御黒戸四箇院(おくろどしかいん)(宮中の仏事をつかさどる四ケ寺、二尊院(にそんいん)、般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)、遣迎院(けんげいいん)、廬山寺)の一寺院である。
明治5年9月、太政官布告で総本山延暦寺に附属した。
昭和23年(1948)圓浄宗として元の四宗兼学(円、密、戒、浄)の道場となり、今日に至っている。→ 関連項目 廬山寺 史蹟 御土居
紫式部邸宅址 源氏庭
当地は、紫式部の曾祖父にあたる中納言 藤原兼輔(877-933)から叔父の為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であった。
それは鴨川の西側の堤防の西に接していたため「堤邸」と呼ばれ、それに因んで兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。
紫式部は百年ほど前に兼輔(かねすけ)が建てた「旧い家」で一生の大部分を過ごしたといわれ、この邸宅で藤原宣孝(のぶたか)との結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたいこ)(大弐三位(だいにのさんみ))を育てた。
婚姻生活は、約三年で宣孝が病死したために終わったが、この夫との別れをきっかけに「源氏物語」を執筆し始めたとされる。
藤原道長が源氏物語の評判を聞きつけ、紫式部を娘の中宮 彰子の女房に推薦した。
紫式部が、女房として宮仕えをしながら全54巻、登場人物500人を超える世界最古の長編恋愛小説を当地で書き上げており、門前には「紫式部邸宅址」の石碑がある。
この邸宅址は、昭和40年(1965)に考古学者角田文衛博士によって考証され、新村出博士揮毫の紫式部邸顕彰碑がある。
本堂南には、白砂と苔及び紫のキキョウを配した「源氏庭」があり、慶光天皇廬山寺陵の前には、彰子が法成寺境内に建立した東北院のものと伝える「雲水ノ井(くもみずのい)跡」がある。
平成7年(1995)には、紫式部 大貮三位 歌碑が建立された。→ 紫式部ゆかりの地
雲水の井は、京都市上京区の廬山寺本堂の東側にある。
雲水の井(くもみずのい)は、慶光天皇廬山寺陵の前(南)にあり、藤原道長の娘 上東門院 藤原彰子(988-1074)が法成寺境内に建立した東北院のものと伝えられている。
加藤繁生氏は、「廬山寺墓地の石造遺構 ー伝『雲水の井』ーについて」(史跡と美術781号)で、この「下り井戸」について詳しく検証している。
安永9年(1780)に出版された「都名所図会」の廬山寺の図には、寺の後方に「雲水の井」と書き入れられている。
上東門院 藤原彰子は、長元3年(1030)、法成寺の北東一角に「東北院」を建立した。
そして愛娘小式部内侍に先立たれて寂しく過ごしていた女房の和泉式部のために院内に一庵を設けた。
この庵は後に「誠心院」(正式名は「華嶽山東北寺誠心院」)と名付けられ、二度移転して、現在は新京極蛸薬師にある。→ 誠心院
東北院は、その後何度か移転し、現在は洛東真如堂(真正極楽寺)の傍らにある。
東北院境内の「軒端の梅」は、和泉式部ゆかりの梅として知られている。→ 雲水山 東北院 軒端梅
「拾遺都名所図会」に洛東の東北院について、次のような記述がある。
「東北院 極楽寺の西に隣る(中略)
雲水井(くもみずのゐ) 堂前の西にあり
軒端梅 同所にあり
抑(そもそも)いにしへの東北院といふハ上東門院の御願にて御父御堂関白道長公の棲みたまふ法成寺の傍らにつくらせたまふ(中略)
和泉式部塔 雲水 軒端梅ハ今所々にあり みな東北という謡曲によりて後世作ると見へたり
當寺の再興ハ元禄年中也
東北院のわたどののやり水に影を見て読み侍りける
続後撰 影みてもうき我なみだ落ちそひてかごとがましき瀧の音かな 紫式部」
上記の紫式部の和歌について、「拾遺都名所図会」、続後撰和歌集では、「東北院」での歌とされているが、
(陽明文庫本)紫式部集では、「土御門院にて」詠まれた歌として載せられている。
(久保田孝雄氏ほか「紫式部集大成」参照)
加藤繁生氏によると、雲水の井は、現在も数カ所に残されており、廬山寺本堂東側の雲水の井もその一つである。
また、謡曲「東北」に因んで、かつて廬山寺境内に「澗底(かんてい)の松」も植えられていたという。
土御門第跡は、京都市の京都御苑内にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。
道長の長女彰子(しょうし)が一条天皇のお后となり、里内裏(さとだいり)である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたといいます。
紫式部日記で描かれる土御門第と源氏物語
紫式部日記の寛弘五年(1008年)霜月(十一月)一日の条。
一条天皇の中宮彰子が出産した第二皇子敦成親王の五十日の祝いが藤原道長の土御門邸で催された。
祝宴もたけなわとなり、許されて中宮の前に参上した公卿たちが女房たちにたわむれかかる。
左衛門の督すなわち藤原公任もふざけて
「このあたりに若紫はおられますか
(あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ)」
と呼びかける。
それを聞いた紫式部は
「源氏ににているような人もお見えにならないのに、ましてあの紫の上がどうしてここにいらっしゃるのだろう
(源氏にかかるべき人も見えたまはぬに、かのうへは、まいていかでものしたまはむ)」
と心に思う。
(「源氏物語千年紀展」紫式部日記絵巻の解説 参照)
この紫式部日記の記述が、源氏物語の成立に関する第一次資料として認められている。
→ 紫式部ゆかりの地
わが世の望月の歌について
上記案内板にある道長のわが世の望月の歌は、寛仁2年(1018)10月16日、道長と倫子の娘 威子が後一条天皇の中宮となった日に詠まれた。
山本淳子氏は、「道長ものがたりーわが世の望月とは何だったのか」で、当日の様子について概略次のように記している。
当日の子細は、道長の「御堂関白記」より(藤原)実資の日記「小右記」に詳しい。
道長が和歌を詠んだのは、内裏の紫宸殿で立后の儀式が行われた後、場を道長の土御門殿に移しての宴(「穏座(おんのざ/おんざ)」)でのことだった。
前々年七月の火災で灰燼に帰した土御門殿はこの六月に新造され、前より高く聳える屋根など、全て道長の指示通りに輝かしく造り替えられていた。
宴がやがて寛いだ二次会になると、音楽が奏でられる中、道長は大納言の実資に戯れるように言った。「我が子に盃を勧めてくれんか?」(中略)
しばらくして、道長は次のように言った。
<以下は、「小右記」>
「和歌を詠まんと欲す。必ず和すべし」てへり。 答へて云はく、「何ぞ和し奉らざるや」。
又云はく、「誇りたる歌になむ有る。但し宿構(しゅくこう)に非ず」てへり。
此の世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば
<大意>
太閤(道長)が下官を呼んで云ったことには、「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。
答えて云ったことには「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。また、(道長が)云ったことには、「誇っている歌である。但し予め用意していたものではない。」ということだ。
「今夜のこの世を、私は最高の時だと思う。(16日で)空の月は欠けているが、私の望月は欠けることもないと思うので。」
私(実資)が申して云ったことには、「御歌は優美です。醜答(しゅうとう)する方策もありません。満座は、ただこの歌を誦すべきでしょう。元稹(げんしん)の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました。」と。→ 京都新聞 文遊回廊
諸卿は私の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。(後略)
(倉本一宏氏編「現代語訳小右記」 参照)
藤原道長の「御堂関白記」は、10月16日の様子について、大変詳細に記しているが、わが世の望月の歌に関しては、次のように和歌とだけ記し、どのような歌であったかは記されていない。
数献の宴飲の後、禄を下賜した。大褂(おおうちぎ)一重であった。ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々はこの和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った。
(倉本一宏氏「藤原道長「御堂関白記」(下)」 参照)
一条院跡は、京都市上京区梨木町にある。
名和児童公園西側に、京都市の案内板があり、次のように記されている。
源氏物語ゆかりの地
一条院跡 平安京左京北辺二坊一町・四町跡
一条院は、平安京の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏(さとだいり)として有名(一条院内裏)。
東西二町のうち御所として用いられたのは西側の一町で、東側は附属する財政や物資の調達を担当する別納(べちのう)であった。
この邸は一〇世紀前半の藤原師輔(もろすけ)から子の伊尹(これまさ)・為光(ためみつ)へと伝えられ、富裕な受領の佐伯公行(さえきのきんゆき)が買得して東三条院(円融天皇女御の藤原詮子(せんし))に献上。
女院は子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(九九九)の内裏焼亡(一条天皇の代には内裏が三度焼亡)から寛弘八年(一〇一一)の崩御まで里内裏として使用された。
東の別納は道長・中宮彰子(しょうし)父娘の直廬(じきろ)(宿泊所)が設けられていた。中宮彰子に仕えた、紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった。
なお、当該地は南北朝時代、後醍醐天皇を擁護して鎌倉幕府の倒幕に貢献し、建武新政の要職についた名和長年が、天皇方と足利方の京都合戦により建武三年(一三三六)六月三〇日に戦死した終焉の地と伝えられ、現在は名和児童公園となっており、石碑が建っている。
名和児童公園東側には、「贈従一位名和長年公殉節之所」と刻した石碑がある。→ 名和長年戦死の地
枇杷殿跡は、京都市上京区の京都御苑内にある。
現地に設置された駒札(案内板)には、次のように記されている。
枇杷殿跡(びわどのあと)
このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男 仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女 姸子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。
紫式部集(補遺)にある枇杷殿で詠まれた和歌
紫式部集(補遺)には、次の歌が載せられている。
一条院の御事の後、上東門院、枇杷殿へ出で
たまうける日、詠み侍りける
ありし世を夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
(解説)
寛弘8年(1011)6月22日に一条天皇が崩御され、中宮 彰子(万寿3年(1026)出家して上東門院と称した)が一条院内裏を引きはらい、
寛弘8年10月16日に枇杷殿(当時 藤原道長が伝領)へ移御された日に詠んだ
(歌意)
帝の御在世時を、はかない夢だったと思いなして御所を立ち去りますが、帝の御影は申すに及ばず、ながす涙さえもがとまらない、
この仮の宿のような御所が悲しく思われることです。
(新日本古典文学大系24 土佐日記 紫式部日記ほか 参照)
東三条院址(とうさんじょういんし) 東三条殿址(ひがしさんじょうどのあと)は、京都市中京区にある。
京都市中京区上松屋町の押小路通(おしこうじどおり)と釜座通(かまんざどおり)の交差点に、「此附近東三條殿址」と記した石標が建てられている。
石標横の案内板には、次のように記されている。
東三条院址(とうさんじょういんし)
東三条院の址はこの辺りを中心として、二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約一三〇メートル、南北約二八〇メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。
はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。
藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉天皇の女御となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。
殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。
その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池に竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家の遊宴が盛んに行われた。
その華やかな様は「本朝文粋」にも記されているが、邸は安元三年(一一七七)に火災で焼失した。
京都市
なお、焼失時期については、当地で皇子 憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子の儀が行われ御所となり、仁安元年(1166)に焼失したともいわれる。
紫式部は、彰子中宮付きの女房として出仕しているが、その間 彰子中宮は、内裏に2年、一条院に3年、枇杷殿に1年、東三条殿に半年程生活し、一条天皇崩御の後は、彰子皇太后(上東門院)として、土御門殿で生活したと考えられている。
高松殿址、高松神明神社は、京都市中京区にある。
正面鳥居東側には、「此附近 高松殿址」と刻した石標と駒札(説明版)が建てられている。
高松殿は、醍醐天皇の皇子 西宮左大臣と呼ばれた源高明(たかあきら)(914-982)の延喜20年(920)に造営された邸宅で、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」に「姉小路北 西洞院東 高明親王家」と記されている。
高明の娘 明子は、この地に住んで「高松殿」と呼ばれ、後に藤原道長と結婚した。
妹の寛子と結婚した三条天皇の皇子 小一条院の住まいにもなっているが、文献では、治安元年(1021)と、更に百年後の保安元年(1120)に焼亡したとの記事がある。
院政期の久安2年(1146)には、鳥羽上皇の命により新造され、近衛天皇の内裏となった。造営には、後に大蔵卿となった長門守 源師行(もろゆき)が当たっている。
久寿2年(1155)には、後白河天皇が当所で即位し、保元2年(1157)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
保元の乱(1156)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢が当地に参集して、白河の地へ攻め込んで勝利した。
その後、平治の乱(1159)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社 高松明神は、現在、高松神明神社となっている。
神明地蔵尊
当社には、神社には珍しい地蔵が祀られている。
寛政6年(1794)紀州九度山の伽藍陀山 真田庵から拝領してきたといわれる。
智将として有名な真田幸村の念持仏で、「幸村の知恵の地蔵尊」として信仰されている。
正面の台石をさすり、子供の頭をなでると知恵が授かるといわれる。
同聚院は、京都市にある臨済宗東福寺派に属する東福寺の塔頭の一つである。
東福寺の寺地一帯は、平安時代中期に藤原忠平が法性寺(ほっしょうじ)を建立した所で、寛弘3年(1006)には、藤原道長(966-1027)が40歳の賀に当たって、五大明王を安置する五大堂を境内に造営した。
その後も、藤原氏が法性寺の造営に力を入れたが、鎌倉時代初期には衰微し、その跡地に九條道家が東福寺を建立したのである。
同聚院(どうじゅいん)は、文渓元作が、その師 東福寺124世住持 琴江令薫(きんこうれいくん)を開山として、文安元年(1444)に建立した。
本堂に安置されている本尊 不動明王坐像(重文)は、旧法性寺 五大堂の本尊で、他の四明王像は失われたが、本像だけは法性寺の遺物として維持されてきた。
不動明王坐像は、仏師 定朝の父 康尚(こうしょう/こうじょう)の作品で、像高265cm、憤怒相の中にも優美さをたたえた藤原美術の代表彫刻の一つである。
夢の中で藤原道長が不動明王から「土方」(下記写真参照)の印を授かったことから、
古くは土地の守護を示す「土方(どりき)不動」、
十万の眷属を従えて衆生救済をする「十万(じゅうまん)不動」、
十方遍く不動の力を照らす「十方(じっぽう)不動」などと称され、
火除をはじめ厄除けの霊験あらたかな不動尊として尊崇されている。
毎年二月二日に「土方」の字を書いた「屋守護札」が配布される。
境内には、モルガンお雪の墓(五輪石塔)がある。雪は祗園の芸妓からアメリカの富豪夫人となり、明治のシンデレラと呼ばれた。
JR奈良線、京阪本線東福寺駅下車、徒歩10分。
宇治陵総拝所(宇治陵1号陵)は、京都市宇治市にある。
宇治陵(うじのみささぎ)は、平安時代の藤原氏出自の皇后など十七方の陵である。(国史大辞典)
JR、京阪木幡(こはた)駅から北東に広がる丘陵に、東西1km、南北2kmの範囲で37陵が分散しており、各方の墳塋は区別できないので、第1号陵を総拝所としている。
明治10年(1877)に、宮内省の調査により、藤原氏出身の皇室関係者20名の陵墓として、37カ所を選抜して国有地とし、十七方の陵、三方の墓を治定して木幡陵と称したが、明治27年(1894)宇治陵と改称した。
宇治陵(うじりょう)は、木幡一帯に散在する陵墓群の総称である。(日本歴史地名体系)
この地は9世紀後半に藤原基経によって一門の墓所と定められたといわれており、木幡寺鐘銘幷序(政事要略)に「元慶太政大臣昭宣公相地之宜、永為一門埋骨之処」と記されている。
寛弘2年(1005)藤原道長が、墓域のほぼ中央に木幡三昧堂(浄妙寺)を造営して藤原北家の菩提所として確立された。
五摂家の分立以後、それぞれの菩提所が別個に設定されていったため、12世紀中葉以降しだいに顧みられなくなって一門の後裔とは疎遠の地となり、廃絶するに至った。
宇治陵総拝所西側には、昭和36年(1981)に藤原氏塋域の碑が建てられている。
JR奈良線木幡駅下車、徒歩5分。
藤原氏塋域の碑は、京都府宇治市の宇治陵総拝所(宇治陵1号墳)西側にある。
塋域とは、墓地や墓場を意味する言葉で、一般的にその家代々の墓地を指す言葉として使われる。
寛弘2年(1005)に造立された浄妙寺堂柱の礎石と伝えられている石材で、昭和36年(1961)8月に建立された。
碑面には、次のように刻されている。
藤原氏塋域
閑院贈太政大臣冬嗣
昭宣公関白基経
本院贈太政大臣時平
法興院摂政兼家
南院関白道隆
法成寺関白道長
宇治関白頼通
後宇治関白師實
JR奈良線木幡駅下車、徒歩5分。
宇治陵32号陵は、京都市宇治市にある。
宇治陵は、藤原冬嗣から始まる藤原北家の長者と、皇后となった子女、親王からなる藤氏(とうし)一門の墓所で、明治10年(1877)皇室関係者の墓域として37ケ所が宮内庁の管理となった。
当地の32号陵の入口には、「(表面)宇治陵 宮内庁 (裏面)三十二」と刻した石柱がある。
山中裕氏の「人物叢書 藤原道長」(2008年刊)によると、藤原道長は法成寺で死去し、鳥戸野で葬送された後、木幡に葬られた。
道長の墓所について、山中氏は次のように記している。
大津透氏は、浄妙寺・金峯山・木幡の墓などについて詳細に述べ、道長一族の墓について調査した結果、道長の墓は、頼通が墓参した記述から、北に少しはなれ丘陵を登りつめた三二か三三号墓かと推測されている。
そして、「藤原氏のように現在まで子孫は続いていても、個人としては墓がわからなくなってしまったのである。」と述べている。(「道長と宮廷社会」)
藤原道長建立浄妙寺跡は、京都市宇治市木幡小学校附近にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
浄妙寺跡(じょうみょうじあと)
木幡は、初の関白なった藤原基経(もとつね)が藤原氏の墓所と定めたとされます。
浄妙寺は、寛弘二年(一〇〇五)藤原道長によって藤原氏の一族を弔うために建てられた寺です。
道長は若いころ父兼家に連れられ木幡を訪れた際、その荒廃に心を痛め、もし高位に上がったら一堂を建て三昧を修めようと思ったといわれます。
創建当初の浄妙寺の本堂は法華三昧堂で、二年後の寛弘四年(一〇〇七)に多宝塔が建てられます。そのほかに鐘楼、僧坊、南門、西門などがありました。
発掘調査では法華三昧堂、南限の築地塀跡、西門跡が発見されています。
浄妙寺は、平等院と並び藤原氏にとって重要な寺でしたが、鎌倉時代に入ると浄妙寺の別当(大きなお寺を管理する役所の長官)が藤原氏から聖護院宮に移り、徐々に衰退していきます。
寛正三年(一四六二)一揆の放火により焼失し、廃絶したものと考えられています。
JR奈良線木幡駅下車、徒歩15分。
藤原道長の墓所について
藤原道長の墓所については、「宇治陵32号陵」など宇治陵37陵のうちのいずれかであるとされてきたが、浄妙寺の発掘調査で、次のように、浄妙寺(現在の木幡小学校附近)の東側にあったとの意見も出されている。
道長の息子・頼通の臣下が書いた日記によると、頼通は「浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」という。
この記述を踏まえると、道長の墓は木幡小の東側にあった可能性が高いという。他方、(宇治陵)32号陵は木幡小のほぼ南側で、やや離れた位置にある。
木幡小の東側からは高貴な人物しか手にすることができなかった中国伝来の青磁水注(重要文化財)が出土している。
「青磁は骨つぼとみられる。道長を含めた藤原氏の墓はこの辺りに集まっていたのではないか」と(京都芸術大学)杉本客員教授はみる。
(2024年7月7日付京都新聞 本好治央氏記事参照)
江口の君堂 寂光寺は大阪市東淀川区南江口3丁目にある日蓮宗の寺院である。
宝林山普賢院と号し、本尊は十界大曼荼羅を祀っている。
江口は、桓武天皇の時代に開鑿された神崎川が、淀川と合流する地点にあり、山陽道と南海道が分かれる交通の要衝であった。
長岡京への遷都にあたり、難波の宮の遊女やくぐつを当地に移したという。
大江正房の「遊女記」には、「蓋し天下第一の楽地也」と記され、東三条院の住吉詣での際には、藤原道長が江口の名妓 小観音を寵愛した。(白洲正子「西行」)
寂光寺の寺伝によると、元久2年(1205)光相比丘尼の開創といわれる。
光相は妙之前といい俗に江口君と呼ばれた遊女で、もとは平資盛の女という。
仁安2年(1167)西行法師と歌問答した遊女妙が光相比丘尼で、問答後発心して庵を建立したのが当寺の始まりと言われる。
西行は天王寺詣での道で遊女に雨宿りを請い、断られて次の歌を詠んだ。
「世の中をいとふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」
遊女妙はすかさずに 次の歌を返した。
「家を出づる人とし聞けば仮の宿に 心留むなと思ふばかりぞ」
この見事な歌の応酬は、山家集、西行物語、撰集抄で描かれ、贈答歌は新古今和歌集に収められている。
また謡曲「江口」では、江口の君の霊が現われ、世の無常と執着の罪を説き、静かに舞ったのち、
遊女は白象に乗った普賢菩薩に変じて西の空へ消えていく形で描かれている。
境内には、贈答歌を刻んだ石碑や君塚、西行塚などがある。
阪急京都線上新庄駅からバスで江口君堂前下車、徒歩5分。
金峯神社は、奈良県吉野町にある神社である。
吉野山の総地主の神で,金鉱を守る金山毘古神(かなやまひこのかみ)を祀る延喜式式内社である。
吉野八社明神のひとつで、金精大明神(こんじょうだいみょうじん)、金山明神などと呼ばれてきたが、その創建は定かではない。
金峯というのは、このあたりから大峰山にかけての総称で、古来地下に金の鉱脈があると崇められ、鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」には、この山で黄金を得たという物語が載っている。
これは、仏教説話として、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたと言われている。
中世以来、さかんに御嶽詣(みたけもうで)が行われ、関白藤原道長がここに参ったことが「栄華物語」に記され、その時の経筒が社宝として伝えられている。
金銅藤原道長経筒は、寛弘4年(1007年)8月11日と記され、紀年銘のある最古の経筒として、国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されている。
また、村上義光所用の鉄鐔卒塔婆透シは重要文化財に指定されている。
2004年には、紀伊山地の霊場と参詣道として、世界遺産に登録された。
金峯神社から小道を下った所には、義経隠れ塔がある。
文治元年(1185年)、源義経がこの塔に隠れ、追手から逃れるために屋根を蹴破って外に出たため、「蹴抜けの塔」とも言われている。
塔のすぐそばには展望台があり、吉野の山並みを望める。
歌舞伎の義経千本桜では、吉野山の蔵王堂近くの河連法眼館や花矢倉が舞台となっている。
近鉄吉野線吉野駅からバスで奥千本口駅下車、徒歩5分。
燈籠堂は、和歌山県の高野山奥之院にある。
燈籠堂は、弘法大師御廟の拝殿で、創建は弘法大師入定の年の翌年 承和3年(836年)にさかのぼる。
弘法大師の弟子の実恵、真然大徳が方二間の御堂を建てたのが最初である。その後治安3年(1023年)藤原道長によってほぼ現在の大きさのものが建立された。→ 高野山参詣年表
堂内正面に、醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、祈親上人の12人の肖像が掲げられている。
堂内には、1000年近く燃え続けているといわれる二つの灯がある。
向かって右が、長和5年(1016年)に祈親上人が、廟前の青苔の上に点じて燃え上がった火を灯明として献じて高野山の復興を祈念したといわれるもので、祈親灯と呼ばれる。
髪の毛を売って献灯した貧女お照の物語に因んで「貧女の一灯」とも呼ばれる。
左には、寛治2年(1088年)に白河上皇が献じた「白河灯」があり、記録では上皇が30万灯を献じたとあり、俗に「長者の万灯」と呼ばれる。
五来重は、著書「増補ー高野聖」において宗教民俗学の立場から、お照の一灯を献じた話は近世の聖が唱導したもので、
祈親上人が弘法大師以来の万燈会を復活することで、燈油皿一杯分の油の喜捨を勧めたとしている。
この他、ある皇族と首相により献ぜられた「昭和灯」のほか、地下を含めた堂内には、参拝者が献じた燈籠と弘法大師の小像が多数置かれている。
現在の建物は、昭和39年(1964年)に高野山開創記念事業として改修されたもので、桁行40.6m、梁間21.9mの大きさである。
また東側には昭和59年(1984年)の御入定千百五十年記念事業として記念燈籠堂が落慶した。
燈籠堂前庭には、昭和天皇御製歌碑がある。
燈籠堂の入口左右の対聯には、次の文の後半が掲げられている。
我昔遭薩埵 親悉傳印明
發無比誓願 陪邊地異域
晝夜愍萬民 住普賢悲願
肉身燈三昧 待慈氏下生
われ昔薩埵(さった)にあひて、まのあたり悉く印明をつたふ
無比の誓願をおこして 辺地の異域に侍(はべ)り
昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に住す
肉身に三昧を証じて 慈氏の下生をまつ
この文は、弘法大師に大師号が下賜され、勅使中納言資澄(すけずみ)卿と般若寺の僧正観賢が高野山に下向し勅書を奏上した際、
入定中の弘法大師が醍醐天皇への返事として言われた言葉として、平家物語「高野巻」に記されている。
「自分は昔 金剛薩埵に遭って、直接目の前で印明をことごとく受け伝えた。
比類なく貴い誓願をおこして、辺地の高野山におります。
毎日毎夜万民をあわれんで、普賢菩薩の慈悲深い誓願を行おうとしている。
肉体のままで入定し、三昧の境地に入って、弥勒菩薩の出現を待っている。」(日本古典文学全集「平家物語」)
南海高野線高野山駅からバスで「奥の院前」下車、徒歩約20分。バス停横に参拝者用の中の橋駐車場(無料)がある。(M.M)(Y.N)
(写真撮影禁止のため写真はありません)
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