慶光天皇廬山寺陵は、京都市上京区廬山寺境内の東にある。
江戸時代中期の追尊天皇 慶光(きょうこう)天皇が葬られている。
陵墓域内には、天皇陵のほか15基の墓がある。
慶光天皇(1733-1794)は、閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王の子で、名は典仁(すけひと)、自在王院と号した。東山天皇の皇孫にあたる。
寛保2年(1742)中御門天皇の猶子(ゆうし)となり、翌年親王宣下を受け、閑院宮家を相続した。→ 高野山奥の院 閑院宮供養塔
安永9年(1780)第6王子 兼仁(ともひと)親王が即位して光格天皇となった。
光格天皇は、後高倉院(守貞親王)、後崇光院(貞成親王)の先例によって、父 典仁親王を太上(だじょう)天皇として尊崇しようとし、寛政元年(1789)以降、朝廷と幕府の間で交渉が行われたが、幕府に拒否された。(尊号一件)
明治17年(1884)中山忠能(ただやす)の発議で、慶光天皇の尊号が追諡(ついし)された。
TOP PAGE 観光カレンダー
TOP PAGE 观光最佳时期