閑院宮家供養塔

閑院宮家供養塔は、和歌山県高野山奥の院29町石北東にある。
奥の院参道から約20m北東に入った、ひときわ高い石塔「川上保太郎翁の碑」(塗材エナメル発明元祖)の東側にあり、壇上の寶城院墓所に5基の供養塔が南北方向に一列に並んでいる。
各石塔の概要は次のとおりである。

 供養塔位置  供養者名  没年  法名  備考
 向かって左端(南) 閑院宮 3代
美仁親王
文政元年
(1818)
華光王院尊儀  
2番目 (不詳) 安永6年
(1777)
(判読困難) 二品太宰帥
典仁親王建立 
3番目 閑院宮 2代
典仁親王
(慶光天皇)
寛政6年
(1794)
自在王院尊儀 弾正尹
美仁親王建立 
4番目 閑院宮 初代
直仁親王
寶暦2年
(1752)
魔尼浄院尊儀
 右端(宝篋印塔) 直仁親王の第2王子
公啓入道親王
(天台座主)
明和9年
(1772)
(最上乗院)
墓石に法名無し
閑院帥宮建立 

閑院宮は、江戸時代中期に創設された親王家で、東山天皇の皇子 直仁(なおひと)親王を初代とする。
当時、世襲の親王家は伏見、有栖川、京極の三家に限られ、皇室、宮家とも嫡子以外は出家することが慣例となっていた。→ 奥の院 伏見宮家供養塔
徳川家宣が6代将軍に就任すると、新井白石の建言を入れて、新宮家の創立をはかり、家領1000石を献じて、宝永7年(1710)直仁親王に一家創立の勅命があり、閑院の宮号を賜った。
その後、典仁(すけひと)、美仁、孝仁、愛仁(なるひと)、載仁(ことひと)の各親王を経て、春仁王に及び昭和22年(1947)に皇族制度改革で皇籍を離脱するまで存続した。
2代典仁親王の子 兼仁(ともひと)親王は、皇統を継ぎ光格天皇となったことから、明治時代に典仁親王に対し、尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号が追贈された。→ 慶光天皇廬山寺陵

左から2番目の石塔は、正面の文字が判読できない。側面に安永6年と刻されている。典仁親王の第9王子鏗宮(薩婆若院)は安永6年4月4日に2歳で逝去しているので、鏗宮の供養塔の可能性がある。



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