たてかわ桜は、京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)本堂南側にある。
現地の案内表示には、次のように記されている。
たてかわ桜
「たてかわ桜」と呼ばれるこの桜は、徳川家光公の乳母 春日局(1579-1643)が、父 斎藤内蔵介利三(1534-1582)の菩提を弔うために植えたものです。
染井吉野の樹皮が横向けに走るのに対し、この桜は松の皮に似て縦に樹皮が走ることから、その名があります。
桜の巨樹に多い江戸彼岸系の品種です。
斎藤利三は明智光秀の重臣でしたが、本能寺の変の後、秀吉軍に山崎の戦いで負け、敗走した近江堅田で捕らえられて、六条河原で斬首されます(首もしくは胴体は光秀とともに本能寺に晒されたと言われています)。
その首を、親交の深かった東陽坊長盛と海北友松が奪って持ち帰り、真如堂に葬りました。
東陽坊長盛は利休とも交友のあった当寺塔頭東陽院の開祖で、建仁寺の茶席「東陽坊」もこの僧の名に由来します。
海北友松は倭風に朝鮮の遺風を加え、山水、花鳥、人物等に独特の境地を開いた画家。
東陽院、友松、利三は、共に真如堂に眠っています。
桜は野生種間での交雑が盛んな上に、江戸時代には参勤交代などによってそれがますます進み、離合集散を繰り返した結果、多くの栽培品種(一説には500種)が誕生したといいます。
春日局が当時主流だった山桜や他の品種ではなく、江戸彼岸系という桜を選ばれたのは、この種が長寿だったかも知れません。
お手植えから300年以上を経たたてかわ桜は、直径が1メートル余りにもなっていたといいますが、伊勢湾台風(1959)で折れてしまいました。幹の中には子供が入れるほどの大きな空洞が空いていて、今もその名残が幹の内側に見られます。
数年後、奇跡的にも折れた幹から芽を吹き、取り木などを試みましたが失敗。しかしすくすくと育つ芽があり、今では毎春少し小振りで清楚な花を咲かせるようになりました。
水上勉氏は小説「桜守」の中でこの桜のことを、「枯れかけた老木の皮が若木を活着させて、見ごとに枝を張った。葉も大きかった。宇多野(作品中の人物)は親桜と同種の桜を接いだのである。
弥吉は、めずらしい巨桜の底力をみて感動すると共に、周りに一本の石をたてて、「たてかわ佐久良」と宇多野が命名しているのに涙をおぼえた。」と著しています。
「宇多野」は京の桜守として著名な某氏のことのようで、実際にこの桜の再生を試みられましたが、成功しなかったそうです。
たてかわ桜は、染井吉野より3日ほど早く咲きます。この看板のある位置の反対側から、本堂をバックにしてご覧になるのがベストかと思います。
水上勉は、小説「桜守」の中で、上記以外にもう1か所 たてかわ桜に触れて、次のように記している。
「人間は桜とちごうて、腹がないことには生きられん。桜は、大きゅうなるにつれて、身ィをへらしよる。
皮だけでも生きてゆきよる。真如堂のたてかわ桜みたいに、四半分の皮に接ぎ木しても生きよる。」
水上勉「桜守」は、桜博士と呼ばれた笹部新太郎(1887-1978)をモデルにした小説で、笹部は大阪造幣局通り抜けの桜管理や御母衣ダムの荘川桜の移植でも活躍した。
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