斎藤利三墓所 海北友松墓所

斎藤利三墓所、海北友松墓所は、京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)にある。

斎藤利三(1534/1538-1582)は、戦国・安土桃山時代の武将である。通称 内蔵介と呼ばれた。
斉藤義竜、稲葉一鉄、織田信長に従い、天正8年(1580)明智光秀に仕えて1万石を与えら家老として丹波に住した。→ 興禅寺
天正10年(1582)6月2日明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲撃した際(本能寺の変)、これに加わり、豊臣方との山崎の戦にも従軍したが、戦い敗れ堅田に逃げて捕らえられた。
6月17日に六条河原で斬られ、23日に光秀と利三の首は繋がれて、三条粟田口で改めて磔刑となった。
その後、斎藤利三の遺骸は友人の絵師 海北友松や東陽坊長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職を務める真如堂東陽院へ葬られた。斎藤利三と海北友松の墓石は、並んで建てられている。
斎藤利三の墓石には、次のように刻されている。
(表) 齋藤内藏介利三墓
(裏) 法名陽剛院殿兦蹄利三居士
    天正十年壬午六月十七日
斎藤利三には、3男1女があり、末女 福は、三代将軍徳川家光の乳母(春日局)となり、権勢を誇った。
江戸時代に編纂された寛政重修諸家譜には、斎藤利三の最期について次のように記されている。
天正十年六月十三日小崎合戦に光秀が兵敗北せしとき所々にをいて勇戦し、
遂に馳て京師の白河にいたり、十七日彼地の民家において自殺す。年四十九。法名窓西。
京都真如堂の東陽院に葬る。

海北友松(かいほうゆうしょう)(1533-1615)は、安土桃山時代、江戸時代の画家である。
京都東福寺で出家したが、主家 浅井家滅亡の後、41歳で還俗した。狩野元信(一説には永徳)に師事し画家の道を歩み、多くの障壁画を制作した。
後年海北家は友松の子の 友雪(ゆうせつ)の代になって一時没落して町絵絵師的生活を送ったが、この時海北家を引き立て再興したのは、利三の娘 春日局であった。友松の恩義に報いたといわれる。

真如堂の当地墓所の近くには、春日局が父斎藤利三の菩提を弔うために植えた 「たてかわ桜」がある。
京阪電鉄出町柳駅からバスで錦林車庫前下車、徒歩5分。参拝者用駐車場がある。



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