善光寺

善光寺は、長野市大字長野元善町にある天台宗および浄土宗の別格本山である。山号は定額山である。

善光寺縁起によると、本尊の一光三尊阿弥陀如来像(善光寺如来)は、釈迦在世の時にインドで造られたもので、のちに百済に伝えられ、欽明天皇13年(552年)に百済の聖明王から日本へ贈られたという。
天皇は像を蘇我稲目に預け、稲目は自邸を向原寺(むくはらでら)として像を安置したが、廃仏を主張する物部氏にって寺は焼かれ、像は難波の堀江に投げ捨てられた。
推古天皇の頃、国司の供として信濃からに出てきていた本田(本多)善光(よしみつ)は、像を水中から取り出し、これを背負って信濃へと運び自宅に安置した。
やがて善光寺如来像の霊験が広く知られるところとなり、皇極天皇の勅命で伽藍が造営され、創建されたのが善光寺であり、最初に如来像が安置された現在の飯田市にあった善光の屋敷は元善光寺(座光寺)と呼ばれるようになった。
鎌倉時代には、源頼朝が再興に尽力し、堂舎も整えられたが、戦国時代に本尊仏は44年間にわたって激しく移動し、信州禰津、甲府善光寺、岐阜善光寺、愛知県甚目(じもく)寺、浜松市鴨江寺、京都方広寺を経て、慶長3年(1598)に信濃善光寺に戻された。

仁王門は、宝暦2年(1752)に建立されたが、その後地震などで焼失し、現在の門は大正7年(1918)に創建された。
正面の左右に阿吽二形の仁王像、背後の左右に三方荒神と三面大黒天の像が祀られている。
四体とも高村光雲とその弟子 米原雲海によって造られた。
正面の「定額山」の扁額は、伏見宮貞愛(さだなる)親王の筆になるものである。

山門(三門)は、江戸時代中期の寛延3年(1750)に建立された。
その後、傷みが激しく老朽化が進んだため、2007年に平成の大修理が行われた。
屋根は、造営当時から大正時代まで栩(とち)葺きであった。その後、檜皮(ひわだ)葺きになったが、平成改修で工法の詳細が判明したため、栩葺きに戻して復元されている。
栩葺きは、厚さ約1cm、幅約5.6cm、長さ約50cmの椹(さわら)の板を重ねて葺いたもので、山門には、18万枚の椹板が使われている。
山門楼上には、文殊菩薩騎獅像や四天王像などが安置され、登廊して拝観できる。
正面の扁額は輪王寺宮(りんのうじのみや) 公澄法親王(こうちょうほっしんのう)の筆で、字の中に五羽の鳩が見えることから「鳩字の額」ともいわれる。

現在の本堂(国宝)は、松代藩主真田家が幕府の命を受けて宝永4年(1707)に再建したもので、東日本最大の仏堂である。
屋根の棟がT字形をしているので、鉦を叩く撞木(しゅもく)になぞらえて撞木造と呼ばれる。
正面7間、側面16間で、外陣、中陣、内陣、内々陣に分けた奥行の深い平面構成となっている。
内々陣西側の瑠璃壇の厨子には、本尊の一光三尊阿弥陀如来像(善光寺如来)が安置され、絶対秘仏とされている。
秘仏の本尊にかわって、数え年7年に一度の御開帳では、前立本尊が瑠璃壇前に安置される。
前立本尊は鎌倉初期に本尊を正確に模して造られたと伝えられており、中央に阿弥陀如来像(約42cm)、向かって右に観音菩薩像(約30cm)、左に勢至菩薩像(約30cm)の三尊となっている。
内々陣の東側には、御三卿像(本田善光、その妻の弥生の前、息子の善佐(よしすけ))が安置されている。
御三卿像東側には、お戒壇巡りの入口がある。瑠璃壇と御三卿像の床下のロの字型回廊を巡るもので、漆黒の闇の中で、本尊下の錠前に触れると、極楽往生できると伝えられている。

本堂西側には、黄檗版一切経6771巻をおさめる経蔵がある。内部は石敷きで、八角の回転式輪蔵(重さ5トン)があり、これを押して一回転させると、中の一切経を全て読んだのと同じ功徳が得られるという。

JR長野駅からバスで善光寺大門下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。



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