土浦藩 朽木家供養塔は、和歌山県高野山奥の院28町石北東にある。
参道右手の慈眼堂 河野宗寛(大渕)老師 歌碑を過ぎたところを右に入り、一段下がった所で、出羽本荘藩 六郷家供養塔の東下に位置する。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓域内には宝篋印塔1基、屋根付墓標1基、中型五輪塔3基など約35基の墓石がある。
主な石塔は次のとおりである。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 朽木 元網 | 寛永9年 (1632) |
長久院殿 福峯米徳大居士 |
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② | 常陸国土浦藩 初代藩主 朽木 稙綱(たねつな) |
萬治3年 (1661) |
豪徳院殿 雄山良英大居士 |
朽木(くつき)氏の祖は近江源治佐々木氏の庶流で、近江守護佐々木木信綱の曽孫義綱(よしつな)が近江国高島郡朽木荘(現 滋賀県高島市朽木)の地頭職に補任されて居住し、朽木氏を称したという。
朽木元網(1549-1632)は、室町幕府15代将軍足利義昭・織田信長に従い、元亀元年(1570)信長が越前国に朝倉義景を攻めている際、浅井長政の背反で窮地に立たされた信長を朽木谷で擁護した。
信長没後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍内応組に属したが、9月15日の決戦で小早川秀秋とともに東軍に寝返り、大谷吉継の陣を破って西軍を壊滅させた。
朽木稙綱(たねつな)(1605-1661)は、慶長10年に朽木元網の3男として生まれ、14歳で徳川家光に仕え、小姓組番頭(ばんがしら)、若年寄をつとめた。
下野鹿沼藩主を経て、常陸国土浦藩主(3万石)となり、承応元年から奏者番となった。
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