国史跡 植山古墳は、奈良県橿原市にある。
丘陵の南側斜面に築かれた長方形墳である。
墳丘の規模は東西約40m、南北約30mで、南に開口する2基の横穴式石室が東西に並んで造られている。
いずれの石室も全長13mを超える大型のものである。
東石室の玄室には、熊本県宇土半島から運ばれてきた馬門石(まかどいし)(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた家形石棺が安置されている。
西石室の玄室入口には、兵庫県加古川周辺の竜山石(たつやまいし)で作られた軸受がある敷居(閫石(しきみいし))が、遺されており、石製扉が取り付けられていた。
6世紀末に東石室が築かれ、その後7世紀前半に西石室が造り足されている。
被葬者は、推古天皇とその息子である竹田皇子(たけだのみこ)の名前が挙げられている。
義江明子氏「推古天皇」によると、推古天皇は、推古36年(628)3月7日に75歳で亡くなり、半年後の9月に植山古墳に葬られた。
推古天皇は、生前に、竹田皇子の陵への合葬を命じていた。
植山古墳への母子同葬により、「竹田皇子が蘇我系筆頭御子であり、推古天皇は蘇我系大王としての生涯を全うしたこと」を明示しようとしたという。
だが、二人の亡骸は、のちに磯長谷の山田高塚古墳に遷された。
反蘇我本宗家の立場を鮮明にすることになる皇極天皇以降に、それ以前の蘇我系大王の眠る(べき)地として、「磯長谷陵墓群」が再編成され、推古天皇と竹田皇子の合葬陵も磯長に遷されたのではないかという。
推古天皇の父の欽明天皇と母の堅塩媛の眠る「檜隈大陵」を間近にのぞむ場所への埋葬を願った推古天皇の遺詔は、「舒明+皇極」王統の形成によってくつがえされてしまったといわれている。
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