山の辺の道(桜井~天理)


仏教伝来の地碑

仏教伝来の地碑は、奈良県桜井市の初瀬川沿いの金屋河川敷公園にある。
古代、この辺りには「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最大の大きな市があったという。
大陸からの船が難波津から大和川(初瀬川)をさかのぼって到着する船着場があった場所で、国内だけでなく外国からの遣いや物資が上陸したと伝えられている。
近くには欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったといわれる。
日本書紀には、「欽明天皇の十三年(西暦552年)冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契等を遺して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る。」と記されており、それをもって日本に仏教が伝来したとされている。
一方、「上宮聖徳王帝説」、「元興寺伽藍縁起幷流記資材帳」では、538年に伝来したと記されている。



金屋の石仏

金屋の石仏は、奈良県桜井市にある。
三輪山南麓の弥勒谷にある石英粗面岩製の弥勒石龕仏で、もとは山中にあったといわれている。
「大和志」には、「弥勒石像在弥勒谷高六尺」と記されている。
高さ212cm、幅91cm、厚さ21cmの板石2枚に、各一体ずつ如来の立像が薄肉彫されている。
向かって右は、説法印の釈迦如来(「石板浮彫伝釈迦如来像」)、左は施無畏・与願印の弥勒如来(「石板浮彫伝弥勒如来像」)といわれている。
製作年代については、平安前期説と鎌倉前期説があるが、像容は平安前期の一木造像に通じ、量感が豊かで衣紋も優雅に彫られている。
国の重要文化財に指定されている。

この収蔵庫の床下に、「ミロク谷石棺」と呼ばれる巨石が2基置かれている。
そのうち一基は阿蘇ピンク石製の家形石棺の蓋石で外面には4つの縄かけ突起があり、5世紀中頃のものと言われている。

JR桜井線三輪駅下車、徒歩15分。



大神神社

大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社である。
三輪明神ともいい、社伝では、崇神天皇の7年(紀元前95年)に創祀されたと伝えられている。
創祀の年代は、伊勢神宮よりも古く、わが国最古の神社である。

祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で、大己貴神(おおなむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)を配祀している。
大和を代表する三輪山を御神体として、本殿はなく、拝殿を通して三輪山を拝む原初の神まつりの姿を留めている。
三輪山は、高さ467m、周囲16㎞、面積350haで、全山松、杉、桧に覆われ、古来から神の鎮まる山(神奈備山、三諸山)として仰がれてきた。
拝殿の奥に、三ツ鳥居(三輪鳥居)が設けられており、明神鳥居三基を組み合わせた独特の様式である。
現在の三ツ鳥居は、明治16年(1883年)の再建で、拝殿とともに国の重要文化財に指定されている。
また、境内地は、古都保存法による歴史的風土三輪山特別地区及び国の史蹟に指定されている。
大神神社の「大神」をオオカミと読まずにオオミワと読むのは、古くから大神神社の祭神は、神の中の神として崇められ、「神」といえば「三輪の神」を意味するようになり、「おおみわ」と呼ばれるようになったといわれている。
祭神の大物主大神は、国土を開発し、酒を醸し、また医薬を施したことで知られている。
このことから、当社は古くから酒の神、医薬の神として著名で、現在は、家運隆盛、厄除方除の神としても、多くの参拝者が訪れている。
JR桜井線三輪駅下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。



狭井神社

狭井神社(狭井坐大神荒魂神社)は、奈良県桜井市にある大神神社の摂社である。
祭神は、大神荒魂神で、大物主神と姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたらいすずひめのみこと)、勢夜多々良姫(せやたたらひめのみこと)、事代主神を配祀している。
本社の大神神社が大物主神の「和魂(にぎみたま)」を祀っているのに対して、狭井神社は「荒魂(あらみたま)」が祀られている。
荒魂は、力強い神威から、病気平癒の神様として信仰が篤い。
社名の「狭井」とは、神聖な井戸、泉、水源を意味し、境内にある薬井戸の水は、万病に効くという「ご神水」で、多くの人が汲みに訪れる。
4月18日に行われる鎮花祭は、疫病を防ぐ祈願の祭りとして833年の「令義解」に記されているもので、「薬まつり」として知られる。
狭井神社前に三輪山登山口があり、社務所に申し込んで、神体山に登拝することが出来る。
神体山の上には、高宮(こうのみや)神社と奥津(おきつ)磐座(標高467.1m)がある。
三輪山信仰と大神神社の神事を「豊饒の海 第二巻 奔馬」に記した作家三島由紀夫の「清明」碑が、境内に建てられている。
JR桜井線三輪駅下車、徒歩10分。



檜原神社

檜原神社は、奈良県桜井市三輪にある。
檜原神社は、大神神社の摂社で三輪山を神体とする神社で、三輪山に向かって三ツ鳥居が建てられている。
祭神は、天照大神若御魂神(あまてらすおおみかみわかのみたまのかみ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)である。
当社の周辺は、崇神天皇の時代に天照大神をまつったという笠縫邑の伝承地で、元伊勢ともいわれている。
JR桜井駅下車三輪駅下車徒歩30分。



崇神天皇陵(行燈山古墳)

崇神天皇陵(行燈山古墳)は、奈良県天理市にある。
大和朝廷の創始者とされる第10代天皇 崇神天皇の陵墓「崇神天皇 山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのみささぎ)」として、宮内庁が管理している。
地域の名をとって「行燈山(あんどんやま)古墳」とも呼ばれている。
第10代崇神天皇は第9代開化天皇の第二子で、母は皇后 伊香色謎命(いかがしめのみこと)と伝えられている。
築造された年代は、4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されている。

古墳は、全長242m、前方部幅100m、高さ13.6m、後円部直径158m、高さ31m、周濠を含めると全長375m、最大幅230mの巨大な前方後円墳である。正面階段下から北に進むと、周濠沿いを周回できる。
前方部を北西に向けて作られており、龍王山西麓の緩斜面に築かれたため、東西で高低差が生じており、そのため周濠が合計3カ所の渡土堤によって階段状に区画されている。
周囲の濠は幕末に柳本藩が灌漑用水に利用するため大修理を加えたものである。
吉野川分水の導水まで、この周濠より低地の田畑を支える重要なため池としての役割を果たした。

埋葬施設は不明であるが、昔の絵図には後円部墳頂に南北方向の盗掘跡とみられる掘り込みが描かれており、掘り込みの様子から竪穴式石室と考えられている。
墳丘は後円部、前方部ともに三段築成と考えられており、周濠から銅板、金銀細工品、土器などが出土している。
銅板は縦54cm、横71cmの長方形で、採られた拓本には表面に内行花文鏡に似た文様、裏面に四区画に分けた文様が陽刻されている。
周囲には、大王墓にふさわしく、南アンド古墳(全長65m)、アンド山古墳(全長120m)、天神山古墳(103m)など四基の陪塚(ばいちょう)がある。
JR桜井線柳本駅下車、徒歩15分。






史跡 櫛山古墳

史跡 櫛山古墳は、奈良県天理市にある。
櫛山(くしやま)古墳は行燈山(あんどんやま)古墳のすぐ東側に立地する全長155mの古墳で、通常の前方後円墳に短い方形部(造り出し)を付加したような特異な形状から、双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)と呼ばれている。
昭和23年(1948)から奈良県教育委員会が実施した発掘調査では、後円部の墳頂から竪穴式石室と石棺の一部が見つかり、腕輪型石製品や合子(ごうす)、盤、壷型などの滑石(かっせき)製品、鉄製品などが出土した。
また東側の方形部頂上の平坦面では、白礫(はくれき)を敷いた特殊な遺構が見つかった。
昭和32年に国史跡に指定されている。
昭和63年(1988)に前方部北側で実施された発掘調査では、前方部を区画する掘割と外堤状の遺構が検出され、口縁を鋸歯(きょし)状に整形した楕円筒埴輪がまとまって出土した。
平成9年(1997)には、天理市教育委員会が前方部南西側の池渡堤(いけわたりづつみ)の護岸工事に伴う発掘調査を行い、池内から前方部基底部の葺石と埴輪列を検出した。
また墳丘基底部よりさらに下段にも墳丘を構成するしゃめんがあることもわかっている。
これらの調査結果から、櫛山古墳の築造時期は古墳時代前期後半(4世紀末)とみられ、柳本古墳群の中では比較的新しい古墳と考えられている。
なお、江戸時代には前方部が柳本藩の弓場になったといわれ、現状でも後円部に登る斜面が大きく削られている。




史跡 黒塚古墳

史跡 黒塚古墳は、奈良県天理市にある。
古墳時代前期(3世紀後半)の古墳で、墳丘の主軸を東西方向に置き、後円部を東にする前方後円墳である。

後円部の調査では、南北方向の竪穴式石室が検出され、発掘調査当時の写真が後円部墳頂の説明板で見ることが出来る。
また、古墳の東側にある天理市立黒塚古墳展示館では、復元された竪穴式石室と三角縁神獣鏡が展示されている。
竪穴式石室は南北長さ約8.3m、北小口幅は約1.3m、南小口幅は約0.9m、高さ約1.7mである。
石室規模は全国第4位の規模で、特に墳丘の規模の比較からすると巨大な石室が作られていたことになる。
石室の構造は、下部を3~4段が人頭大の自然石を積み上げ、この上部から天井部までは板石により強く持ち送りながら壁面をつくっている。
このため板石で積まれた壁面は、断面が三角形状を呈する合掌式の竪穴式石室であることがわかった。
石室内には、南北長さ約6.2m、幅約1mの粘土で作られた棺台が置かれていた。断面はU字形であることから、本来は割竹形木棺がこの上に置かれていたと考えられる。ほぼ中央部は鮮明な朱色で、分析の結果水銀朱が付着していた。

石室に残された遺物は盗掘を免れ、平成9年、10年の調査で、埋葬された当時のまま出土している。
棺内の遺物は画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)1面が立った状態であり、その両脇からは刀剣が2振り置かれていた。
棺外では33面の大量の三角縁神獣鏡が、棺と壁面の間、及び北小口に立てかけるように置かれていた。また刀剣類、鉄鏃、槍などが出土している。

平成13年(2001)に国史跡に指定されている。
JR桜井線柳本駅下車、徒歩5分。国道169号線沿いに駐車場があり、駐車場から徒歩5分。




釜ノ口山 長岳寺

釜ノ口山 長岳寺は、奈良県天理市柳本町にある高野山真言宗の寺院である。
通称 釜口大師と呼ばれる。本尊は阿弥陀三尊である。
山号 釜ノ口山(かまのくちさん)の由来は、当地が日本武尊(やまとたけるのみこと)の第10子釜口王の遺跡であることによる。
長岳寺は、天長元年に淳和天皇の勅願により弘法大師空海が創建したものと伝えられ、もと大和(おおやまと)神社の神宮寺であったという。盛時には塔中四十八ケ寺、衆徒三百余名をかぞえた。
鎌倉時代には興福寺大乗院の末寺となったが、慶長7年(1602)徳川家康から朱印寺領100石を寄進された。
大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く参道を行くと、日本最古の鐘楼門がある。弘法大師創建当初の唯一の建物で、上層に鐘を吊った遺構があるため鐘楼門と呼ばれ、重要文化財に指定されている。
本尊の阿弥陀三尊像は、仁平元年(1151)の墨書銘があり、玉眼嵌入(かんにゅう)仏では最古のもので、多聞天、増長天像とともに国の重要文化財に指定されている。
12,000坪の境内には四季折々の花が咲き、花と文化財の寺として親しまれている。
JR柳本駅下車、徒歩20分、参拝者用の駐車場がある。



石上神宮

石上神宮は、奈良県天理市布留町にある。
桜井市の大神神社と並ぶ日本最古の神社で、古くは石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社、また布都(ふつ)御魂神社、布瑠社などとも呼ばれた。

祭神は、神武天皇東征のときに国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))とその霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」、
鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あましるしとくさのみづのたから)の起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の威霊を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)としている。
相殿に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、白河天皇、市川臣命(いちかわおみのみこと)を配祀している。

記紀によると、神武天皇即位元年、建国にあたって功績のあった天剣の威霊を布都御魂大神として宮中に奉祀したが、
その後の崇神天皇7年11月、物部の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が勅により布都御魂大神を、当地の石上布留高庭(たかにわ)に移し祀ったのを当宮の初めとしている。
以来、物部氏歴代が奉仕するところとなり、垂仁天皇39年に五十瓊敷命が剣1000口をつくり、神倉(ほくら)に納めた。
平安時代後期の永保元年(1081)には、白河天皇が当宮の鎮魂際のため、宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進し、現在の拝殿(国宝)となっている。

中世には、戦乱による社頭の破壊や、社録の没収などで衰微したが、明治期に神祗の国家管理が行われることになり、明治4年(1871)官幣大社となり、明治16年に神宮号復称が許された。
当神宮には、かつては本殿がなく拝殿後方の禁足地を御本地(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されていた。
明治7年(1874)に、大宮司(だいぐうじ)菅政友(かんまさとも)が官許を得て禁足地は発掘され、玉類、武具、装飾具など多数の宝物類が発見されて、石上神宮禁足地出土品として重要文化財に一括指定されている。

摂社として、出雲建雄神社(延喜式内社)、天神社、七座社がある。
出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿は、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃寺後大正3年(1914)に移築したものである。
中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く割拝殿(わりはいでん)の典型的なもので、国宝に指定されている。
鏡池のワタカという淡水魚は、草を食べることから馬魚とも呼ばれ、奈良県の天然記念物に指定されている。→ 奈良(天理)の昔話 馬魚 馬の顔をした魚

東回廊には、石上神宮の代表的な宝物である国宝「七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)」の写真が掲出されている。
この刀は、刀身の左右に段違いに3本の枝が出ている全長74.8cmの鉄剣で、鉄身両面には金象嵌の銘が刻まれている。
中国の東晋の太和4年(西暦369年)に、百済王が倭王(わおう)に献じたものではないかと考えられている。
JR及び近鉄天理駅から徒歩30分。参拝者用の駐車場がある。






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