八坂神社は、京都市東山区にある神社である。
祭神は、素戔嗚命(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱御子神(やはしらのみこがみ)である。
祇園社、祇園感神院(ぎおんかんじんいん)、祇園天神社、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)などと呼ばれたが、明治元年に現在の社名となった。
全国にある約三千の八坂神は、当社を勧請したものである。
社伝によると、斉明2年(656年)に高麗から来朝した伊利之(いりし)(八坂始祖)が、新羅国牛頭山の素戔嗚の神霊を八坂郷に祀り、天智6年(667年)に感神院としたと伝える。
日本紀略には、延長4年(926年)修行僧が祇園天神堂を建てたと記している。
平安時代の天禄3年(972年)に初めて御霊会(ごりょうえ)が行われて以来、古くから疫病除けの神として崇敬されている。
四条通に面する西楼門を入ると、蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)を祭神とする疫神社がある。
むかし祖神が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ、巨旦将来(こたんしょうらい)は、富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれども、粟殻で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしたので、
「われはハヤスノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約束されたという。
例年1月19日の例祭で茅の輪くぐりが行われており、祇園祭で授与されるちまきには「蘇民将来之子孫也」と書かれている。
現在の社殿は、承応3年(1654年)四代将軍徳川家綱が寄進したもので、祇園造りといわれ、正面5間、側面2間で朱塗りに飾り金具を多用した豪壮な建築である。
1月3日には、「かるた始め式」が行われる。祭神、素戔嗚命が詠んだ歌が、和歌の起源とされるのにちなんだ行事である。
能舞台の上で、色鮮やかな平安装束に身を包んだ男女が、百人一首の手合わせを披露する。
京阪本線祇園四条駅下車、徒歩5分。
祇園祭は、正しくは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)、略して祇園会(ぎおんえ)と呼び、八坂神社の例大祭である。
7月1日から約1か月に及ぶ祭礼で、東京の神田祭、大阪の天神祭りと合わせて、日本三大祭りといわれる。
特に7月15日の宵々山から7月17日の山鉾巡行では、「コンチキチン」の祇園囃子とともに京都の街が祇園祭一色となる。
祇園祭の始まりは、平安時代に遡る。貞観11年(869年)、都を中心に全国的に疫病が流行した。→ 祇園神社
これは、牛頭天王の祟りであるとして、祇園社司(ぎおんしゃつかさ)卜部日良麻呂(うらべひらまろ)の命で、6月7日、当時の国の数66か国に準じて、長さ二丈の鉾66本を建て、
14日には都の男児や近郷の農民が神輿を担いで神泉苑に出向き、疫病退散の神事を行った。
この祇園会は、疫病の流行の時だけ行われたが、元禄元年(970年)から、毎年6月14日に行われるようになり、現在まで続いている。
12月31日の深夜から1日にかけ、神社で吉兆縄に白朮(おけら)火をいただいて消えないようにまわしながら持ち帰り、この火で神前に燈明をつけ、雑煮をたき、一年の無病息災を願う。
白朮は漢方の薬草で、独特の匂いがあり、疫病を追い払うといわれている。