八ツ橋発祥之地石碑

八ツ橋発祥之地石碑は、京都市左京区熊野神社境内にある。
石碑には、次のように刻されている。
 八ツ橋発祥之地
  梅原 猛
石碑横には、西尾為治の銅像があり、中央の説明板には次のように記されている。
   八ッ橋発祥之地
西尾為治は、明治十二年(1879)山城国愛宕郡 聖護院村の八ッ橋屋に生まれ、以来昭和三十七年(1962)一月に永眠するまで、八十四年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。
後年中興の祖と言われ、元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね”京に八ツ橋あり”とその名声を拡げました。
平安建都千二百年を記念し、八ッ橋発祥の地「聖護院の森」に石碑並びに銅像を建立しました。
   熊野神社

聖護院西側の「西尾八ッ橋の里」の庭園には、次の説明板がある。
  八ッ橋の由来
平安初期(842年)、三河の国に羽田玄喜という医者がおり、若くして死したが家財豊かでなく、妻は山に薪を、海では藻を刈るなどで遺児を養育していた。
ある日、妻はいつものように向岸に海苔を採りに出かけた。
だが、子供は母の跡を慕い河流で溺れ亡くなる。
母は嘆き悲しみ、無量寿寺(八橋寺)に入り髪を剃り師孝尼(しこうに)と号し朝夕子供の冥福を祈り、一心本尊祈願。
ある夜のお告げに遵(したが)い入江の浦に漂う木材を村人の助けを借りて拾い、蜘蛛の手のごときに流し橋を架けた。その数八つに及んだので世人これを八ッ橋と称した。
元禄二年(1689年)、我が家祖為次郎、この逸話を聞き師孝尼の志を憐(あわ)れみ、子を思う親心を広く且つ永く伝えたいと八ッ橋を模して菓子を作り、八ッ橋と名付けた。
それ以来数百年、八つ橋作りが国内外の愛顧に依(よ)るのは、一重(ひとえ)に師孝尼の美事(びじ)との神縁と感謝す。
   本家西尾八ッ橋
       十六代 西尾為和




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