野耀山増福寺は、大阪府河内長野市上田にある。
畠山氏は武蔵国秩父郡に平安末期に住み着き、地方の豪族として秩父郡畠山荘の荘司となって平家に従った。
室町幕府が成立し、その戦乱期に河内一円の守護職に就任したのが畠山義深(よしふか/よしとう)(1331-1380)で、河内畠山氏の祖は畠山義深から始まる。
義深は、元弘元年(1331)に生まれ、40歳で息子 畠山基国(もとくに)に河内守護職を譲り、当地近くの小字名七寶庵(しちほうあん)に庵を建てて隠居し、康歴元年1月12日(1380)49歳で他界した。
義深は、法名(号)を増福寺殿「わまか」と呼ばれていたので、法号をそのまま寺号として、応永年間(1394-1428)に当地に増福寺が建立された。
本尊は木造地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代)で、脇仏として不動明王座像と愛染明王座像が安置され、木造十一面観世音立像(平安時代)ほか数体の像も併せて祀られている。
往時の建造物は老朽化し、現存する建造物は近くにあった正法寺の建造物を移築したものである。
高野街道三日市宿内上田駅「高札場跡」
江戸時代、当地は三日市宿の入口で、高野詣の人々の往還筋にあたり、また人馬継立の駅を設けていたので、ここに高札場(こうさつば)があった。
高札場とは、一般庶民に告知するために法度や禁令などを記した板札を町の辻や広場に高く掲げたもので、明治6年(1873)に廃止され、当時の高札は現在烏帽子形八幡神社に所蔵されている。
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