「街道(古道)歩き」資料 16-4 








中高野街道
守口から平野までは、時代によっては「放出街道」といわれた。
中高野街道の延長ともなっている放出街道は、平野区平野より東大阪市布施を通り、鶴見区放出を経て北上し、旭区清水町を通って守口市高瀬町に入り、竜田通りで京街道に接する道である。 

平野郷 ひらのごう
摂津国住吉郡の在郷町(現,大阪市平野区)。中世には平等院領杭全荘(くまたのしよう)などがあったが,戦国期に環濠都市として発展,七名家といわれる末吉,土橋(つちはし),三上,成安,辻葩(つじはな)らが年寄として支配した。自治意識が強く,三好氏の代官本庄加賀守の排斥や,織田信長にも堺と連合して抵抗し,その代官蜂屋頼隆の下代排斥を行った。織田政権下では年貢定金納,地下請(じげうけ),市津料(ししんりよう)・陣夫(じんぷ)免除,徳政免除などの特権を認められ,豊臣前期にもその多くが継続された。郷内は本郷7町で,惣年寄5名と各町年寄が行政を担った。また末吉孫左衛門のように,江戸幕府の代官を務め朱印船貿易を行う豪商を出した。領有関係は織田・豊臣の直轄領,秀吉夫人(高台院)領,徳川直轄領をへて,柳沢吉保領となって以後,一時,幕領になったが,松平,本多,松平,土井と譜代大名領が続いた。
 平野郷は大城下町大坂の建設でかなりの住民が移住したが,在郷町として発展した。大坂南部綿作地帯の中心で,17世紀後半には木綿市がたち,竹屋など関東へ繰綿(くりわた)を数百駄も送る商人もでている。名産は木綿で,05年綿作率は田方51%,畠方80.7%,このころの木綿関係商工業者は繰屋166軒をはじめ286軒であり,紡車,つむ,綿繰機の道具がつくられている。酒造も1697年(元禄10)造石株(ぞうこくかぶ)561石余があり,多くの商工業をもっていた。また上層民を中心に杭全神社連歌所にみられる文芸活動があり,1717年(享保2)には惣年寄土橋友直らが郷学の含翠堂(がんすいどう)を創立し儒学による教化運動を行った。明治期には綿作は衰退するが平野紡績などができ,大阪南郊の経済的中心となった。1925年大阪市に編入された。

杭全神社 くまたじんじゃ
当社は坂上田村麻呂の子、広野麿がこの付近の地を賜り、その子当道(とうどう)が862年に氏神として素戔嗚尊ほかを祀った(第一殿)のが最初といい、杭全荘の惣社として栄えた。
その後、熊野信仰が流行して1190年に熊野権現を勧請した。(第三殿)
さらに1321年、後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。(第二殿)
神社名は、かつて牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)あるいは熊野三所権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺に移され、1870年に杭全神社と改称された。
第一殿は、春日大社本殿の移築で、第二、第三殿は、1513年に再建されたものである。
杭全神社連歌所は、室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼失し、1708年に再建されたもので、1585年から明治初期まで連歌会が行われた。
参道西側には、くすの大樹があり、樹齢600年以上で、大阪府の天然記念物に指定されている。
年中行事では、1190年から伝わる413日の御田植神事と、「けんか祭」といわれる勇壮な夏祭りが知られている。

巽神社
社伝によれば、巽神社は応神天皇を奉り旧河内国渋川郡大地(おおぢ)村にあり、八幡(はちまん)神社といわれていた。創建年代は不明だが、平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)巻の六にも河内国澁川郡に邑智(おおち)とあるほか、竹淵(たかふち)、餘戸、跡部(あとべ)、賀美(かみ)、と集落があり、氏神を祀る風習から既に神社が祀られていた。明治40(1907)4月、大地「横野神社」、伊賀ヶ字伊賀ヶ「天神社」、西足代字葭の内「天照皇大神社」、矢柄字宮の前「熊野神社」、四条字山小路「天神社」の五社を合祀、村の名をとって巽神社と改称した。

旧巽村役場跡
明治22(1889)年に町村制が施行されたとき、矢柄村・伊賀ヶ村・西足代村・四条村・大地村の5つの村が合併し、大阪城から見て、巽(東南)の方角に当たるところから「巽村」となった。昭和344月大阪市に合併されるまで役場があった 

釈翠岩さんの墓と頌徳碑(生野区中川東2-7)<現地確認>
江戸時代中期享保年間この中川地区に翠岩さんという人がおられ慈善心が強く私財を投じて道をつくり橋を架けた。その頌徳碑。


小路村役場跡
「河内平野西部の一角にあった小路村は、西北部に片江、西南部に中川、中央部に大友、東北部に腹見の四大字に分かれており、小路の地名は、腹見(原見)にあった天武天皇が通ったとされる小路に起因していると思われる。
 その後、昭和18(1943)年に大阪市に編入されるまでここに小路村役場があった。

現在は役場跡の碑はないが、小路耕地整理の記念碑、片江村の宮跡碑、春高稲荷社蹟碑が建てられている。

清見原神社 
天武天皇の飛鳥浄御原からの社名と伝える

布施戎神社
もとは都留弥神社の地

深江稲荷神社
旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)の創建
笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、境内が「笠縫邑跡」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、市から史跡に指定されている


法明寺
文保2年(1318)融通大念仏宗中興の祖、法明上人の開基で、境内に「雁塚」と呼ばれる二基の石塔がある。
旧深江(ふかえ)集落の南西部にあり、浄土宗、山号深江山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、文保二年(1318)法明房良尊が開創したという。法明は融通念仏の大念仏(だいねんぶつ)寺(現平野区)中興の祖としてしられ(融通念仏三祖略伝)、二五歳で出家後高野山・比叡山で修学、のち当寺を建立したと伝える。また彼は深江の出身で、晩年の正平二年(1347)当寺に隠居したといい、現平野区にも法明隠居寺の伝をもつ融通念仏宗法明寺がある。法明を開基とするところから、当初は大念仏寺と深く関係があったと推察できるが史料を欠く。ただ境内には法明と同時代の暦応二年(1339)銘の石造層塔があり、施主が「念仏講衆等」となっているのが注目される。寺は戦国期より荒廃し、慶安元年(1648)浄土宗の僧善誉夢白が再建、寛文三年(1663)京都知恩院末となった。境内には前記層塔と並んで弘長二年(1262)銘の塔もある。二基の塔は雁(がん)塚といわれ、二羽の雁夫婦を葬ったと伝える。また龕塚(摂津名所図会)とも書き、法明没後その龕を埋めた塚という伝承もある。 

足代(あじろ)安産地蔵
もとは聖源寺(明治5年廃寺)に祀られていた。

暗峠奈良街道交差点 奈良街道(暗峠越)ならかいどう
大阪と奈良を結ぶ街道はこのほかに幾つかあり、大阪から大和川の旧河道に沿って南東に行き、八尾(やお)市・柏原(かしわら)市・奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡王寺(おうじ)町を経て奈良市に至る道も奈良街道とよぶが、生駒山地中、標高四五六メートルの暗(くらがり)峠(東大阪市と奈良県生駒市の境)を越え、諸道中最短距離で大阪市と奈良市とを結ぶこの街道は、明治時代までは人馬の往来が盛んであった。近世段階のルートは、大坂三郷玉造(たまつくり)各町(現東区)に接する中道(なかみち)村(現東成区)の二軒茶屋(にけんぢやや)を街道口とし(東成区の→二軒茶屋跡)、大今里(おおいまざと)村・深江(ふかえ)村(現東成区)、新喜多(しぎた)新田・御厨(みくりや)村・新家(しんけ)村・菱江(ひしえ)村・松原(まつばら)村・水走(みずはい)村・豊浦(とようら)村(現東大阪市)と東進、暗峠を越えて大和に入った。大和側の起点は奈良で、二軒茶屋―奈良間八里八町という。大和側では大坂街道とよんだ。なお大坂の起点を八軒家(はちけんや)(現東区)とする説もあり(枚方市史)、近代には高麗(こうらい)橋(現東区)が起点とされた。
暗峠の名は、松・杉などの大木が茂り、昼なお暗いほどであったことによるとする説、生駒山の山続きの小椋(おぐら)山の下にあるので椋が根峠といったことによるとする説(河内名所図会)、鞍ヶ嶺の意とする説などがある。 

念唱寺
寺の前に聖源寺ゆかりの碑がある。
念唱寺南側にある公園は明治五年まで西高井田の村社「八幡神社」が祀られていた。
この西側の道は、摂津国(大阪市東成区深江)と河内国(東大阪市高井田)の国境
平安時代の「日本略記」に「大同元年(806年)10月に河内国と攝津両国堤を定める。」とあり、このとき定められた国堤の名残と思われる。

聖源寺ゆかりの石碑(東大阪市高井田西1)
念唱寺の北西角にある聖源寺の「南無妙法蓮華経」石碑
側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあり、およそ400年前に建てられ、明治時代に廃寺となった聖源寺の石碑

諏訪神社
長野県にある諏訪大社の全国に5千ある分社にひとつ。創建の年代は不明だが、境内に現存する古い石灯籠に『承和3年(836年)4月寄進』と刻まれているところから、今から1200年ほど前の平安時代に創建されたと考えられる。祭神は、建御名方刀美命(たけみなかとみのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。当祭神は武家の崇拝が厚く、軍神と呼ばれていることから、源義正奉納の額一面、豊臣秀吉奉納の獅子一対(牝獅子のみ現存)、させんどう不動の門前にあった宝暦10年(1760年)銘の百度石などがある。
菅原道真が筑紫への左遷の途中に当社に立ち寄り休憩をとったことから、道真を祭る天満宮が境内にある。道真が座ったとされる腰掛け石などが祭られている。(この地域の旧地名「左専道」は、この故事に由来するといわれている)。また境内には、戊辰戦争で官軍の軍艦に備えつけられていた大砲・砲丸が設置されている。その石台には「明治25 月官軍攻五稜郭此其所用巨砲之一也」と記されている。


長瀬川を渡ると街道を境にして東側が東大阪市(河内国)、西側が大阪市城東区東成区(摂津国)となる。

阿遅速雄神社 あちはやおじんじや
第二寝屋川に長瀬(ながせ)川が合流する地点の北側に鎮座。阿遅高日子根神を主神とし、現在は草薙剣の分霊正一位八剣大明神を配祀する。往古は八剣(やつるぎ)大明神と称した。旧郷社。「延喜式」神名帳に載る東生(ひがしなり)郡の同名社に比定される。社伝によれば、天智天皇七年(六六八)に熱田(あつた)神宮(現名古屋市熱田区)の神剣草薙剣を盗みだした新羅の沙門道行は、当地付近で暴風雨に遭遇したことから、神罰をおそれて神剣を投げすてた。この神剣は一時当社に奉安され、やがて皇居に移送されたが、朱鳥元年(六八六)熱田神宮へ返納されたという。草薙剣の盗難事件については「日本書紀」「扶桑略記」「熱田宮旧記」などに散見するが、当社の祭神が出雲系の神であり、現社地付近の往古の地勢を勘案すると、その由緒は放出の地名説話に帰結すると思われる。近世には放出村の産土神。例祭日の一〇月二二日には熱田神宮より代表者が参拝し、同宮の例祭日六月五日には当社の代表が参拝する。境内の北東隅に菖蒲池がある。往時は七月九日の夏祭、現在は五月五日に菖蒲刈神事を行う。災難除けの菖蒲と伝える。境内の細砂は脚の病気に効験ありとする。境内には相殿社・大将軍社・稲荷社・護国社があり、樟の大樹は白竜大権現を祀る神木で、遠方からも望見できる。府の天然記念物。
阿遅速雄神社境内にある道標
元は放出街道と野田街道の交差点に建っていたが、現在は 阿遅速雄神社内で保存されている。天保15年(1844)、先達の元七が発願し若中が奉賛したもの。


境内(正面鳥居右側)にお蔭灯篭(慶応4年(1868))
江戸時代、ほぼ60年周期で爆発的に流行した、伊勢参宮お蔭参りがあった。これに因み、街道筋には献灯されることが多かった。この1基は、現在市内にただ一つ残るものである。


正因寺
正因寺(鶴見区放出東1)前に建つ中高野街道の石柱と(大阪市教育委員会)

鶴見緑地
街道は内環状線(府道479)と鶴見緑地の間を南北に通る

護念寺(真宗大谷派)(世木御堂)守口市高瀬町
世木(せぎ)御堂ともよばれる。山門向いの道路に「御堂前橋」の石碑が建ち、かつては寺の前を高瀬(たかせ)川が流れていた。真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によると、本願寺八世蓮如の子で加賀国若松本泉(わかまつほんせん)寺(現石川県金沢市)の四世実悟は、永禄年中(一五五八―七〇)河内地方で布教、土居(どい)坊(現清沢寺)を創建後、加賀国一向一揆で享禄四年(一五三一)焼失した本泉寺を世木に復興したという。「大谷一流諸家分脈系図」の実悟の条に「永禄中創河州茨田郡土居坊、又創同郡世木之坊」とあり、本泉寺復興とは「世木之坊」創建のこととみられる。本泉寺は実悟の子で五世教恵のとき大坂天満(てんま)(現北区)に移転、その跡地に支坊として建立されたのが護念寺で、護念寺は本泉寺の懸所とされた。境内墓地に永禄六年の五輪塔、大塩平八郎の乱の参加者(門弟の橋本忠兵衛(ほおずき忠兵衛)の墓碑がある。また本堂東側に、行基が造った高瀬大橋(行基年譜)の橋桁石と伝える石と千林(せんばやし)(現旭区)の道端にあったというキリシタン灯籠一基が置かれている。

高瀬川跡
この高瀬川に僧行基が架けたといわれている橋があり橋の遺物と思われる杭の石柱が出土したことから、相当大きな川で、かつては淀川の本流であったといわれている。

高瀬神社
この神社は、延喜五年(905)から延長五年(927)にかけ作成された延喜式神名帳に記載されている由緒ある古社である。祭神は天御中主命で、旧の世木・馬場村の氏神である。天正年間(1573~92)に織田・三好の兵火で焼かれたものの、その後再建され、江戸中期頃に建てられたのが現在の社殿である。江戸時代には、神殿その他すべて備わった大社で八幡宮とも呼ばれていた。また、平安時代この付近には高瀬川が流れており、この高瀬川は古歌にも歌われ、特に『高瀬の里』『高瀬の淀』は有名な歌枕となった。現在南側のロータリーに「高瀬川跡」碑が建てられている。

杭全神社

杭全神社は、大阪市平野区にある神社である。
当社は坂上田村麻呂の子、広野麿がこの付近の地を賜り、その子当道(とうどう)が862年に氏神として素戔嗚尊ほかを祀った(第一殿)のが最初といい、杭全荘の惣社として栄えた。
その後、熊野信仰が流行して1190年に熊野権現を勧請した。(第三殿)
さらに1321年、後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。(第二殿)
神社名は、かつて牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)あるいは熊野三所権現と呼ばれていたが、明治の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺に移され、1870年に杭全神社と改称された。
第一殿は、春日大社本殿の移築で、第二、第三殿は、1513年に再建されたものである。
杭全神社連歌所は、室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼失し、1708年に再建されたもので、1585年から明治初期まで連歌会が行われた。
参道西側には、くすの大樹があり、樹齢600年以上で、大阪府の天然記念物に指定されている。
年中行事では、1190年から伝わる4月13日の御田植神事と、「けんか祭」といわれる勇壮な夏祭りが知られている。
JR大和路線平野駅から徒歩7分。駐車場はないが、参道への駐車は可能である。



おじいさんの木 第17号 

おじいさんの木第17号は、大阪市生野区の中高野街道(放出街道)にあるエノキである。
名称は、「乾のエノキ」で、樹齢約150年、高さ14m、幹回りは2mである。
この地域は、江戸時代河内国渋川郡乾村で、平野郷から放出村(守口)を結ぶ放出街道の道しるべとして知られてきた。
平成17年11月17日に、NPOおおさか緑と樹木の診断協会が登録し、案内板が建てられている。

巽神社 

巽神社は、大阪市生野区にある神社である。
祭神は、応神天皇(品陀別名命ほんだわけのみこと)、印色入日小命(いにしきいりひのこのみこと)、天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)、伊弉冊尊(いざなぎのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)である。
社伝によれば、当社は旧河内国渋川郡大地(おおじ)村にあり、八幡神社といわれていた。創建年代は不明だが、平安時代に編纂された和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)巻の六にも河内国渋川郡に邑智(おおち)とあるほか、氏神を祀る風習から、各集落に神社が祀られてきた。
当社には、式内横野神社があり、垂仁天皇の第二皇子 印色入日小命を祀る。
明治40年(1907年)4月に、大地印地「横野神社」、伊賀ケ字伊賀ケ「天神社」、西足代字葭の内「天照皇大神社」、矢柄字宮の前「熊野神社」、四条字山小路「天神社」の五社を合祀して、村の名をとって巽神社と改称した。
大阪市営地下鉄千日前線南巽駅下車、徒歩5分。


旧巽村役場跡 

旧巽村役場跡は、大阪市生野区にある史跡である。
巽地区は、古来より河内国渋川郡に属し、古代は、豪族物部氏の所領の一部であった。
中世には、石清水八幡宮の荘園となり大地ノ荘と呼ばれていた。
江戸時代中頃からは、京都淀藩(10万2千石)稲葉丹後守の領地となり、同氏世襲して明治維新に至る。
その後、明治22年の町村制施行に際し、当時同一戸長役場の区域であった大地村、四条村、伊賀ケ村、矢柄村、西足代村の五ケ村が合併し、新しく一村が設置されることになり、従来の各村はその大字となって「巽村」ができた。
この村名は、大阪城より見て辰巳の方角に当たることから起こったと言われている。
村役場は、初め小学校と共に大地集落中に在ったが、大正七年この場所に移転された。
以来、昭和23年まで中河内郡巽村役場として、また同30年まで巽町役場として永らく地域住民に親しまれて来たが、昭和30年4月巽町が大阪市に合併されて生野区の一部となったため、町役場も間もなく廃止された。さらに後、昭和48年の町名変更により、大地、四条などの旧町名は、巽中、南などの新町名に改称された。
西隣の巽小学校北校舎2階の教室に旧巽村時代の民具や農機具、歴代村長などの写真等を展示した郷土資料館がある。
大阪市営地下鉄千日前線南巽駅下車、徒歩5分。



布施戎神社 

布施戎神社は、大阪府東大阪市にある神社である。
現在の神社境内地は、その昔、足代村の氏神として延喜式(927年)神名帳に載る「都留弥(つるみ)神社」(祭神 速秋津日子(はやあきつひこ)神、速秋津比売(はやあきつひめ)神)が、まつられていた。
江戸時代後期の河内名所図会(1801年刊)には、都留弥神社、足代村にありと記されている。
明治18年(1885年)の淀川大洪水により、神社は神殿・宝物・古文書などすべてを流失し、その後、村民の手により再建されて、足代村の氏神社としてまつられてきた。
都留弥神社は、明治40年(1907年)から始まった、国の神社合併により、近隣の荒川、長堂、岸田堂などの神社と合併して、この地から東方約1kmの現在地に移転して祀られているが、その時に当境内地は、地元足代の有志へ払い下げられ、民有共有地として保管されてきた。
この境内地跡に、地元の要望により、昭和29年(1954年)西宮神社から戎大神(ひるこの尊)の御霊代を勧請し、布施戎神社の祭祀が始まった。
周辺地域が商業地として発展するに伴い、更に昭和60年(1988年)には、大阪の今宮戎神社(事代主命(ことしろぬしのみこと))を勧請した。
毎年、1月9日、10日、11日の十日戎には、商売繁盛を願う人々が多く参拝する。
近鉄大阪線布施駅下車、徒歩5分。

足代安産地蔵 

足代安産地蔵菩薩は、大阪府東大阪市布施駅南にある地蔵である。
記録によると、この石仏は少し北の、もと東足代北町の聖源寺(明治5年に廃寺)境内やその付近の辻などに祀られていたが、昭和5年5月に始めて現在地に立派な祠堂を建立し堂内に丁重に安置された。
古くから安産地蔵の名で広く親しまれ、深い信仰を集めてきた。
材質は、赤みがかった安山岩製高さ60cm、幅36cm、奥行き30cmの自然石の表面に右手に錫状、左手に宝珠を持ち、直径23cmの光背を有する像高41cmの頭でっかちの地蔵立像が蓮座上に薄肉に彫出する。
室町時代末期の作品で、胸間連珠の瓔珞(ようらく 首飾り)が刻まれている。
刻銘は、中央の立像の両脇に向かって右に「永禄五壬戌十月二十四日」(西暦1562年)、また向かって左には、「河内国渋川郡足代庄衆生」と印刻されている。
昭和43年に東大阪市有形文化財(彫刻)に指定された。すぐ北側には、「足代だんじり」が展示されている。
近鉄大阪線布施駅下車、徒歩2分。



深江稲荷神社 

深江稲荷神社は、大阪市東成区にある神社である。
旧深江村の氏神で、和銅年間(8世紀前期)に創建された。
笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、境内が「笠縫邑跡」「深江菅笠ゆかりの地」として、大阪府、大阪市から史跡に指定されている。
万葉歌人の高市黒人(たけちのくろひと)の歌碑が建てられ、次の通り 深江歴史文化委員会の説明文がある。

四極山(しはつのやま)打ち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚無小舟

住吉の浜の磯(石ころ)の果てるところ(四極)から小高い丘を上り切ると
難波潟に昔から笠縫の人々が住んでいる島が見え その島影に棚板のない小舟が隠れていくよ

碑の和歌の作者は、万葉歌人高市黒人です。生没年月は不詳。大和国高市郡(やまとのくにたかいちごおり)の出身。
持統天皇の吉野行幸や三河行幸に随身し歌を詠んだ。また、越中、尾張、近江、山城、摂津を旅し歌を作る。

「四極山」については、国学者 賀茂真淵は、摂津国西生(にしなり)郡にあると述べられ、また国学者本居宣長も住吉の山坂神社辺りが四極山だと書いている。
住吉津から大和の竜田に通ずる磯歯津(しはつ)路があり、その途中住吉より喜連に行く間の小高い丘が四極山と言われ、ここから河内湖(かわちこ)の笠縫島を眺めて読んだと推測されます。
「笠縫の島」については、本居宣長は、古事記伝の中で「摂津国の笠縫の島という所は東生(ひがしなり)郡の深江村である」と述べている。
この深江村に(宮浦・水鶏田(すいなだ)、菅島(すげじま)、島ノ岸)という字名(あざな)があり、これが島であったことを彷彿させます。

約二千年前、大倭(やまと)に在った笠縫邑(かさぬいむら)で、現在は伊勢神宮に祀られている御神体を護りながら、菅で笠、その他神事に使用される祭具等を作っていました。
そして第十一代垂仁天皇の御代に御神体が伊勢に遷幸(せんこう)された後、祭具の需要は減りましたが、菅笠が高貴な人々のためだけでなく、一般の人も使用し始め需要が増えましたので、菅草(すげくさ)の豊富な場所を求め、生駒の山並みを越えました。
そこで小さな島の辺りに良質の菅が豊かに生えているのを見つけここを安住の地と定めました(深江村)。
そして時代が進み、経済文化が発展するに伴い、菅笠の需要がますます多くなり、中世には奈良興福寺の大乗院が支配した「座」四十八の中に「菅笠座」があり、畿内の菅笠を独占していました。
江戸時代にお伊勢詣りが全国的に盛んになり、暗峠越奈良街道を通る人が、月間四、五萬人があったと言われています。
街道沿いには数軒の菅笠屋があり人々は旅の安全を祈って菅笠を買い求め、参詣したといわれています。伊勢音頭の中にも歌われ摂津名所図会にもその賑わいが描かれています。

しかもなによりも重要なことは、平安時代の法令集「延喜式」にも、「摂津国笠縫氏に調達」とあるように、伊勢神宮式年遷宮の当初(持統天皇・690年)から二十年ごとに「御笠」及び「御翳(さしほ)」を奉納されていたと考えられます。
この「深江菅細工」の伝承が平成十一年に大阪市指定無形文化財に認定されています。また人間国宝角谷一圭氏の下でも、昭和四十八年以降代々御神鏡を謹作されています。
そして天皇の御即位に際し侍従が後方からご身体に差し掛け、汚れから守る御菅蓋(かんがい)(菅笠)を献納できる栄誉を代々担っているのが東生深江村笠縫の島であります。


法明寺
 
法明寺は、大阪市東成区にある浄土宗の寺院である。
当寺は、花園天皇文保2年(1318年)法明上人の創建である。
上人は、弘安2年(1277年)当地に生まれ、高野、比叡両山に上って、真言の秘法、天台の教観を極めたが、末世の凡夫生死出離の要諦は浄土の法門、弥陀の本願による外なし、と感じ念仏三昧に意を決し、故里の当地に帰り、両親菩提のための草庵を結んだのが、法明寺の創りである。
上人は、後醍醐天皇の御代、良忍上人によって創められた融通念仏宗の大念仏寺を再興し、後、当寺に隠棲し、長瀬北蛇草で荼毘に付された。
寺は、戦国時代に荒廃し、慶安元年(1648年)浄土宗の僧善誉夢白が再建し、寛文3年(1663年)京都知恩院末となった。
なお、境内左手の墓地中央附近に四層の石塔が2基あり、二羽の雁夫婦を葬った「雁塚(かりづか」)と伝えられている。
大阪市営地下鉄千日前線新深江駅下車、徒歩10分。


念唱寺 

念唱寺は、大阪府東大阪市高井田にある融通念仏宗の寺院である。
寺のある場所は、戦国時代に、石山本願寺に味方して織田信長と高井田の戦いで討死した、足代(あじろ)の豪族小寺美濃守高仲の墓地があり、祠が建てられて、毘沙門天がまつられていたといわれている。
本山大念仏寺発行の「融通念仏宗年表」によると、寛文8年(1668年)に、河州(かしゅう)西高井田村毘沙門堂を寺院化して念唱寺としたことが記されており、それが寺としてのはじまりである。
寺はその後、衰退の時期もあったが、寺の本尊の天蓋には、宝暦12年(1762年)「施主 当寺中興淨恵大徳」また、瓔珞にも明和5年のこととして「再興 淨恵法師」とあり、淨恵(安永9年没)という僧の時代に寺の復興が図られたことがわかる。
本堂の奥中央に、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、阿弥陀坐像は、腹前で定印を結ぶ像高75.7cmの一木造りで、全体に後世の彫り直しで相当改変されているが、平安時代の仏像で、両脇侍像は江戸時代前期頃と推定されている。
脇にある厨子内の毘沙門天立像も大きく改変された像で、像高67cm、寄木造り、玉眼嵌入の室町時代頃の作品と推定されている。
念唱寺南側にある公園は、明治5年まで西高井田の村社「八幡神社」が祀られていた。
寺の西側の道は、摂津国(大阪市東成区深江)と河内国(東大阪市高井田)の国境で、平安時代の「日本略記」に、「大同元年(806年)10月に河内国と摂津両国堤を定める。」とあり、このとき定められた国堤の名残と思われる。
寺の前に聖源寺ゆかりの「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑がある。
側面に「東足代村、聖源寺享保12年(1722年)」とあり、およそ400年前に建てられ、明治時代に廃寺となった聖源寺の碑である。
近鉄大阪線布施駅下車、徒歩10分。

諏訪神社 

諏訪神社は、大阪市城東区にある神社である。
祭神は、建御中方刀美命(たけみなかとみのみこと)と八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、長野県にある諏訪大社の、全国に五千ある分社の一つである。
創建の年代は不明であるが、境内にある古い石灯籠に「承和三年(836年)四月寄進」と刻まれていることから、平安時代に創建されたと考えられている。
境内には、延喜元年(901年)に菅原道真が筑紫へ左遷される時、河内道明寺在住の伯母君にお別れに行く途中、当社に立ち寄り休憩をとった際に座ったとされる菅公腰掛石が祀られている。
村人は、菅公の身の上に同情し、地名を左遷道と改め、のちに左専道と改め近年まで用いられた。
腰掛石の横の手水鉢は、菅公の子孫である平直貞が先祖の縁を偲んで享保2年に奉納したものである。
この腰掛石に触れると学業成就の願いが叶うと伝えられている。
また、境内には、明治2年(1869年)戊辰戦争で官軍の軍艦が五稜郭を攻めるときに使った大砲、砲丸が設置されている。
豊臣秀吉が奉納したと伝えられる獅子は、天正18年(1590年)の小田原城攻略戦勝に際し、大坂城鎮護の神として日ごろ尊崇していた当社に奉納されたものである。
雌(白雲号)、雄(白豊号)一対だったが、明治18年(1885年)の淀川大洪水で雄獅子は流失し、雌獅子のみが残っている。
この雌獅子は、夏祭り、秋祭りと正月三が日に社務所に展示される。
秋祭りで行われる獅子舞は、豊臣時代から始まったと伝えられており、戦時中から一時期は途絶えていたが、昭和43年(1968年)に復活し、大阪市内の神社で唯一の獅子舞が伝えられており、大阪市の無形民俗文化財に指定されている。
JR学研都市線放出駅下車、徒歩10分。

阿遅速雄神社 

阿遅速雄神社は、大阪市鶴見区にある神社である。
阿遅高日子根神を主神とし、現在は草薙剣の分霊正一位八剣(やつるぎ)大明神を配祀する。往古は八剣大明神と称した。
旧郷社。「延喜式」神名帳に載る東成郡の同名社に比定される。
社伝によれば、天智天皇七年(668年)に熱田(あつた)神宮(現名古屋市熱田区)の神剣草薙剣を盗み出した新羅の沙門道行は、当地付近で暴風雨に遭遇したことから、神罰をおそれて神剣を投げ捨てた。
この神剣は一時当社に奉安され、やがて皇居に移送されたが、朱鳥元年(686年)熱田神宮へ返送されたという。
草薙ぎ剣の盗難事件については「日本書紀」「扶桑略記」「熱田宮旧記」などに散見するが、当社の祭神が出雲系の神であり、現社地付近の往古の地勢を勘案すると、その由緒は放出の地名説話に帰結すると思われる。近世には放出村の産土神。例祭日の一〇月二二日には熱田神宮より代表者が参拝し、同宮の例祭日六月五日には当社の代表が参拝する。境内の北東隅に菖蒲池がある。往時は七月九日の夏祭、現在は五月五日に菖蒲刈神事を行う。災難除けの菖蒲と伝える。境内の細砂は脚の病気に効験ありとする。境内には相殿社・大将軍社・稲荷社・護国社があり、樟の大樹は白竜大権現を祀る神木で、遠方からも望見できる。府の天然記念物。
神社境内にある道標は、元は放出街道と野田街道の交差点に建っていたが、現在は 阿遅速雄神社内で保存されている。天保15年(1844年)、先達の元七が発願し若中が奉賛したもの。
境内(正面鳥居右側)にお蔭灯篭がある。江戸時代、ほぼ60年周期で爆発的に流行した、伊勢参宮お蔭参りがあった。これに因み、街道筋には献灯されることが多かった。この1基は、現在大阪市内にただ一つ残るものである。
JR学研都市線放出駅下車、徒歩2分。



正因寺 

正因寺は、大阪市鶴見区にある浄土真宗大谷派の寺院である。
山号は、西海山である。
中高野街道に面しており、寺院前には中高野街道の石柱と大阪市教育委員会の案内板が建てられている。
JR学研都市線放出駅下車、徒歩10分。



鶴見緑地

花博記念公園鶴見緑地は、大阪市鶴見区にある都市公園である。
1972年4月に開園し、1990年には国際花と緑の博覧会(通称「花博」「花の万博」)のメイン会場となった。
花博終了後、記念施設の咲くやこの花館、いのちの塔などを残して、都市公園としてとして再整備された。
120万平方メートルの広大な園内には、バーべキュー場、芝生広場、バラ園、乗馬苑、風車の丘などの施設が充実している。
大阪市営地下鉄鶴見緑地駅下車、徒歩すぐ。


世木御堂 護念寺 

護念寺は、大阪府守口市高瀬町にある真宗大谷派の寺院である。世木(せぎ)御堂とも呼ばれる。
本尊は、阿弥陀如来である。山門向かいの道路に「御堂前橋」の石碑が建ち、かつては寺の前を高瀬川が流れていた。
寺伝によると、本願寺八世蓮如の子で加賀国若松本泉(わかまつほんせん)寺(現石川県金沢市)の四世実悟は、永禄年中(1558-1570)河内地方で布教、土居坊(現清沢寺)を創建後、加賀国一向一揆で享禄4年(1531年)焼失した本泉寺を世木に復興したといわれている。
本泉寺は、実悟の子で五世教恵のとき、大坂天満(現北区)移転、その跡地に支坊として建立されたのが護念寺で、護念寺は本泉寺の懸所とされた。
境内墓地に、永禄6年の五輪塔、大塩平八郎の乱の参加者の墓碑がある。
また、本堂東側に、行基が造った高瀬大橋の橋桁石と伝える石と千林の道端にあったというキリシタン灯籠一基が置かれている。
京阪本線土居駅下車、徒歩8分。

高瀬神社  高瀬川跡

高瀬神社は大阪府守口市にある神社である。
当神社は、延喜5年(905年)から延長5年(927年)にかけて作成された延喜式神名帳に記載されている。
祭神は、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)で、旧の世木・馬場村の氏神である。
天正年間(1573年〜92年)に織田・三好の兵火で社殿は焼かれたものの、その後再建され、江戸中期頃に建てられたのが現在の社殿である。
江戸時代には、神殿その他すべて備わった大社で、八幡宮とも呼ばれていた。
高瀬神社の社叢林は、クスノキ、イチョウ、クヌギなどの大木で構成され、古いものは樹齢320年を超えると推定されている。昭和55年(1980年)に守口市から保存樹林に指定された。

平安時代には、この付近に高瀬川が流れており、この高瀬川は古歌に数多く歌われ、特に「高瀬の里」「高瀬の淀」は有名な歌枕となった。
現在、神社南側のロータリーに「高瀬川跡」碑が建てられている。
また、高瀬川に僧行基が架けたと言われている橋があり、橋の遺物と思われる杭の石柱が出土したことから、相当大きな川で、かつては淀川の本流であったといわれている。
京阪電車土居駅下車、徒歩3分。


TOP PAGE  観光カレンダー

日時 12月15日(木) 第4回街道(古道)歩き 7:34橋本駅発 8:43平野駅着

全体時間 歩行315分+説明等35分+休憩80分=430分=7時間10分

街道歩きタイムテーブル
 
距離 時間 休憩 計画 備 考
Km 累計 到着 出発
平野駅 8:43 トイレ男2女2
8:50
0.60 0.6 15
杭全神社 20 受付
準備運動
9:05 トイレ男2女2
9:25
2.40 3 35
巽神社 5 10:00
10:05
1.90 4.9 30
中川東2公園 5 10:35
10:40
0.90 5.8 25
小路駅 5 11:05 (トイレ改札内)
コンビニもあり
11:10
0.70 6.5 20
布施戎神社 5 11:30 トイレ男1女1
11:35
0.20 6.7 15
近鉄電車高架下 45 11:50 昼食各自トイレ
12:35
0.60 7.3 10
暗峠奈良街道 12:45
12:45
0.20 7.5 5
法明寺 5 12:50
12:55
0.50 8 10
東深江公園 10 13:05 トイレ男2女2
13:15
0.80 8.8 15
諏訪神社 13:30
13:30
0.70 9.5 15
阿遅速雄神社 5 13:45
13:50
2.30 11.8 40
鶴見北中央公園 5 14:30
14:35
0.60 12.4 15
鶴見緑地西口 5 14:50 トイレ男4女4
14:55
2.20 14.6 45
高瀬神社 5 15:40
15:45
0.90 15.5 15
守口駅 16:00 トイレ男3女3
歩行合計 15.5km 315分=5時間15分
全体時間
平日朝時刻 橋本発 林間発 新今宮着 新今宮発 平野着
7:34 8:19 8:27 8:35
7:34 7:40 8:29 8:34 8:43
8:43 8:51
平日帰宅時刻 守口市 淀屋橋着 なんば発 橋本着
15:47 15:59 16:24 17:14
15:57 16:09 16:36 17:27
16:07 16:19 16:59 17:53


参加者配布資料