枇杷殿跡は、京都市上京区の京都御苑内にある。
現地に設置された駒札(案内板)には、次のように記されている。
枇杷殿跡(びわどのあと)
このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男 仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。
一〇〇二(長保四)年以降、藤原道長と二女 姸子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、一〇〇九(寛弘六)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。
一〇一四(長和三)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます。
→ 紫式部ゆかりの地 藤原道長ゆかりの地
紫式部集(補遺)にある枇杷殿で詠まれた和歌
紫式部集(補遺)には、次の歌が載せられている。
一条院の御事の後、上東門院、枇杷殿へ出で
たまうける日、詠み侍りける
ありし世を夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける
(解説)
寛弘8年(1011)6月22日に一条天皇が崩御され、中宮 彰子(万寿3年(1026)出家して上東門院と称した)が一条院内裏を引きはらい、
寛弘8年10月16日に枇杷殿(当時 藤原道長が伝領)へ移御された日に詠んだ
(歌意)
帝の御在世時を、はかない夢だったと思いなして御所を立ち去りますが、帝の御影は申すに及ばず、ながす涙さえもがとまらない、
この仮の宿のような御所が悲しく思われることです。
(新日本古典文学大系24 土佐日記 紫式部日記ほか 参照)
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