一条院跡は、京都市上京区梨木町にある。
名和児童公園西側に、京都市の案内板があり、次のように記されている。
源氏物語ゆかりの地
一条院跡 平安京左京北辺二坊一町・四町跡
一条院は、平安京の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏(さとだいり)として有名(一条院内裏)。
東西二町のうち御所として用いられたのは西側の一町で、東側は附属する財政や物資の調達を担当する別納(べちのう)であった。
この邸は一〇世紀前半の藤原師輔(もろすけ)から子の伊尹(これまさ)・為光(ためみつ)へと伝えられ、富裕な受領の佐伯公行(さえきのきんゆき)が買得して東三条院(円融天皇女御の藤原詮子(せんし))に献上。
女院は子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(九九九)の内裏焼亡(一条天皇の代には内裏が三度焼亡)から寛弘八年(一〇一一)の崩御まで里内裏として使用された。→ 枇杷殿跡
東の別納は道長・中宮彰子(しょうし)父娘の直廬(じきろ/ちょくろ)(宿泊所)が設けられていた。中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこの一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となった。→ 紫式部ゆかりの地
なお、当該地は南北朝時代、後醍醐天皇を擁護して鎌倉幕府の倒幕に貢献し、建武新政の要職についた名和長年が、天皇方と足利方の京都合戦により建武三年(一三三六)六月三〇日に戦死した終焉の地と伝えられ、現在は名和児童公園となっており、石碑が建っている。
名和児童公園東側には、「贈従一位名和長年公殉節之所」と刻した石碑がある。→ 名和長年戦死の地
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